毒と薬

〈J〉と〈日本〉〜介護士はJポップがお好き?

朝のひと言スピーチで、若手の男性介護スタッフが、浜崎あゆみを見に国立代々木競技場へ行ってきた話をしました。 スタッフがコンサートへ行ったという話題はときどきありますが、考えてみたら、海外のアーティストやグループだったという話は一度も聞いたことがありません。

若者たちの洋楽離れがいわれますが、この傾向が顕著になったのは、やはり世紀末の宇多田ヒカル、ヒッキーブームからではないでしょうか。「彼女の歌は欧米のポップスとくらべても遜色ない」と多くの日本人に思いこませた功績は大きいと思います。加えて、流しの娘だった藤圭子の娘で帰国子女だった点も重要です。
それは、敗戦以来、さらにいえばペリー来航以来、日本人が抱えていた欧米コンプレックスが解消されたことのあらわれでした。

世界とは西洋であり、洋楽とは欧米のポップスをさし、日本と西洋の二元論でしか世界観を持てなかった時代が終わり、西欧諸国とアジア諸国と日本とが等価なものととらえられるようになったグローバリゼーションの時代へ。その象徴がヒッキーであり、Jポップであると私は思います。

若者たちの洋楽離れとJポップ志向を、以前「介護士は心霊がお好き?(その3)」でもふれましたが、西洋との比較において浮き彫りになる〈日本〉への回帰ととらえてはなりません。それが結晶化されれば演歌になります。そうではなく、この場合、日本対西洋の二元論の解消からくる無国籍化としてのドメスティック現象とみるべきでしょう。これを、私は消費研究家の三浦展氏にならって〈J〉化と呼んでいます。

ところで、Jポップが、世界のポピュラー音楽のなかで、どの程度のレヴェルにあるかを問うのは愚問です。なぜなら、Jポップは〈ワールド・スタンダード〉からあえて目をそらし、日本と周辺の東アジア諸国のごく一部を〈世界〉ということにして、このフレームのなかで自己充足的に循環しているようにも映るからです。

私のスタンスはちがいます。
西洋と日本の二元論を解消して、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなど、世界中の音楽を同じ地平線上にいったん並べます。そこには価値の優劣はありません。そうしておいたなかから、たとえば〈日本〉なら〈日本〉を意識的/作為的につかみ出し、それと向き合います。そのためには、自分が属する文化や生活環境をも相対化し対象化しなければなりません。これこそ、私が考える「ワールド・ミュージック」の態度です。

〈J〉的なスタンスはこれとは対照的で、自分の生活実感からくる「あるがまま」の態度、むずかしくいうと〈主情主義〉的な態度です。

以前、ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」を「森山加代子の『白い蝶のサンバ』(あなたに抱かれてわたしは蝶になる)にそっくりだね」と評したら、スタッフから「ちがいますよ、ロックですよ」と鼻息荒く反論されました。どうやら歌謡曲や演歌といっしょにされるのには抵抗があるみたいです。

歌謡曲や演歌に象徴されるそれまでの〈日本〉とのちがいをみせようと、欧米ポップス風の衣装を着てはみたものの、ボディは歌謡曲や演歌とあまり変わっていないというのがJポップの真実です。いってみれば、おにぎりや月見そばはイヤだが、かといってピクルスが苦手なので、ライス・バーガーや月見バーガーを注文するようなもの。

だから、Jポップ。またの名を〈よさこいソーラン〉。

〈J〉・・・そのど真ん中に身を置いていると、あまりのベタぶりにたじろぐこともしばしばですが、こういう人たちによって地域の介護、というより日本社会は支えられているという現実に思いを巡らすとき、自分の無力さを思い知らされます。

2010.10.22 | 介護社会論音楽とアート