毒と薬

「常識」は「常識」ではない?

デイケア送迎のドライバーをしている50代の男性職員がわたしにこんなグチをもらしました。

20代前半の新人の男性介護スタッフが自分を目の前にしながら、あいさつしなかったので注意した。かれは一瞬顔をこわばらせて、ひとことも発することもなく目を反らしてしまった。それからも、かれはずっと自分を無視し続けている。そんな態度に我慢がならないと。

わたしはこう答えました。
あなたは、かれが謝罪するにせよ反発するにせよ、自分とおなじ土俵でシロクロを付けることを暗に期待していたのだろう。
が、かれは土俵に上がってこなかった。なぜなら、かれの頭の中にはあなたとのトラブルを避けたいということしかないのだから。それでかれはあなたを「無視」することで「自分の世界にあなたがいない」ことにしてしまった。ケータイでいえば「非通知設定」、電子メールでいえば「フィルタリング設定」のようなものであると。

思えば、わたしが昨年発表した『ヤンキー介護論』は、いわゆる「社会常識」「職業倫理」にあわせてかれらを「矯正」しようとしてもムリであり、それよりもかれらの価値観をそれとして受け入れズラしていくことに力を注ぐべきだというものです。

「かれらのレベルが低い」とするのは「社会常識」なるものを内面化している自分の価値観と照らし合わせてのことでしかありません。世代論を語りたくはありませんが「かれらとは次元がちがう」と開き直った方が自分の身を守るうえでもよほど気が楽です。

双寿会には医師やわたしのような高学歴の者もいれば、中卒の介護職員もいて、それらのひとたちが近い距離で接する職場環境にあります。
かれらと接していて、合理的にはどうみても自分で自分の首をしめることになる判断をかれらが平気でとることによくとまどいます。それはときに「経営者」の立場からすればありがたかったりするのですが、「価値中立的」にみると賛同できません。ついでにもうひとつマックス・ウェーバーの用語を用いるなら、かれらの行為は「目的合理的行為」ではなく「感情的行為」なのです。

論理でかれらをねじ伏せるのは簡単です。でも、そのときかれらは「納得」したのではなく「屈服」させられたにすぎません。こうしてもの言わぬかれらの心の奥にルサンチマン(怨念)がふり積もります。わたしはそれらが堰を切って噴出することのほうがこわい。

だからわたしは、かれらの「島宇宙」をむやみに「開発」するのではなく、「保全」しながら社会化させていくのが最善の策と考えます。

2010.01.27 | 介護社会論