毒と薬

豊寿苑 春の祭事「豊川稲荷祭」~ おいなりさんは深い!

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豊寿苑の敷地内にある豊川稲荷の祠(右下)とのぼり(クリックで拡大)

平成27年3月19日(木)、豊川稲荷祭をおこないました。

例年ならば旧暦2月の初午(はつうま)ですが、今年はその日が3月31日に当たっていたため、前倒しして、旧暦1月の三の午に当たる19日になりました。

現在、豊寿苑が建っている場所には以前、毛織物工場があって、豊川稲荷の祠はその時代からそこにありました。今年は運悪く雨降りだったことから、場所を変えて豊寿苑内の和室前でおこないました。

豊寿苑内での祈祷の様子。奥は未年を迎えたご利用者名で紅白の布を奉納。

豊寿苑内での祈祷の様子。奥は未年を迎えたご利用者名で紅白の布を奉納。

本山は愛知県豊川市の豊川稲荷です。鳥居はありますが京都の伏見稲荷のような神社ではなく曹洞宗の寺院です。正式には「円福山豊川閣妙厳寺」(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)というそうです。だから、お祭りには曹洞宗のお坊さんが来られてお経を唱えてご祈祷します。

曹洞宗のお坊様ですが勢いよく真言を唱えます。

曹洞宗のお坊様ですが、経文を勢いよく振りかざして真言を唱えます。

紅白ののぼりに書かれてあるように尼真天」をお祀りしています。これは「だきにしんてん」と読み、元はインドの民間信仰の下級女神で、平安時代に密教と共に入ってきました。

では、なぜ「ダキニ天」「狐」と結びついたのでしょうか。

この点について、私が東京で編集者をしていた頃、お世話になった名著『狸とその世界』で知られる元立正大学教授で、昨年お亡くなりになった中村禎里先生『狐の日本史』(日本エディタースクール 2001年)の中でこう推理しています。

中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』

中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』

ダキニは元来、人の死体を食らう鬼神でした。狐もまた、動物の死肉を食らい、しかもしばしば葬地に巣を作っていました。ここからダキニと狐のイメージが重なったのではないかと。

もっとも中村先生の分析はもっと複雑で錯綜しているのですが、ものすごく単純化していうとこういうことです。

当施設の掛け軸に描かれたダキニ天

当施設の掛け軸に描かれたダキニ天(クリックで拡大)

ところで、写真にあるようにダキニ天は、狐にまたがる女神として描かれています。これは、中村先生によると、農耕神としての狐信仰と習合したダキニ天像が水神として蛇信仰と結びついた弁財天の姿から導かれたためだといいます。

持ち物も弁財天を模倣して宝珠と剣を持つのが一般的だったようです(『狐の日本史』表紙参照)。ところが、当苑が所有する豊川稲荷のレプリカの掛け軸を見ると、左手は富と財宝をもたらすとされている宝珠ですが、剣に代わって右手は藁束を天秤棒に掛けて肩で担いでいます。商売繁盛、農耕豊穣神としてのイメージがますます強くなったということですね。ダキニ天も狐も表情が柔和で、恐ろしい鬼神のイメージはかけらも感じられません。

密教の法具、五鈷杵(ごこしょ)も使っていました。

密教の法具、五鈷杵(ごこしょ)も使っていました。

次に「狐」「稲荷」の結びつきについて考えます。

伏見稲荷大社に近い京都の稲荷山(232m)は、古くから農耕の神が坐す場所とされてきました。それが民間の農耕神としての狐信仰と重なったというわけです。しかも、稲荷山は、ダキニ天を奉じる東寺密教僧の修行の場だったようです。

こうして「稲荷」−「狐」−「ダキニ天」のトライアングルが完成しました。

祈祷のあと、各人が順にお参りしました。

祈祷のあと、各人が順にお参りしました。

それにしても、「狐憑き」といい、「おちょぼさん」の愛称で知られる岐阜の「千代保稲荷」にまつわる呪いのわら人形といい、狐には、いまだに暗くてネガティブなイメージがあります。これは中国から伝わった妖狐のイメージが流布したこと、ダキニ天法という、鎌倉時代以降、密教僧のおこなった加持祈祷が邪法とされていたことと関係があります。

タントリズムを思わせる愛の呪法とか、稲と雷神の関係とか、戦国武将と稲荷信仰とか、稲荷信仰にかんして書きたいことはまだたくさんありますが、長くなるのでこのあたりにしておきます。

私たちにとっては、身近な存在である「おいなりさん」ですが、調べれば調べるほど深い歴史と文化と信仰があぶり出されてきて興味は尽きません。

「祈る」ことは心を空(くう)にすることだと感じます。

「祈る」ことは心を空(くう)にすることだと感じます。

《参考文献》
・中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』(日本エディタースクール 2001年)

平成27年3月19日(木)、豊川稲荷祭をおこないました。
例年ならば旧暦2月の初午(はつうま)ですが、今年はその日が3月31日に当たっていたため、前倒しして、旧暦1月の三の午に当たる19日になりました。
現在、豊寿苑が建っている場所には以前、毛織物工場があって、豊川稲荷の祠はその時代からそこにありました。今年は運悪く雨降りだったことから、場所を変えて豊寿苑内の和室前でおこないました。
本山は愛知県豊川市の豊川稲荷です。鳥居はありますが京都の伏見稲荷のような神社ではなく曹洞宗の寺院です。正式には「円福山豊川閣妙厳寺」(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)というそうです。だから、お祭りには曹洞宗のお坊さんが来られてお経を唱えてご祈祷します。
紅白ののぼりに書かれてあるように「?枳尼真天」をお祀りしています。これは「だきにしんてん」と読み、元はインドの民間信仰の下級女神で、平安時代に密教と共に入ってきました。
では、なぜ「ダキニ天」が「狐」と結びついたのでしょうか。
この点について、私が東京で編集者をしていた頃、お世話になった名著『狸とその世界』で知られる元立正大学教授で、昨年お亡くなりになった中村禎里先生が『狐の日本史』の中でこう推理しています。
ダキニは元来、人の死体を食らう鬼神でした。狐もまた、動物の死肉を食らい、しかもしばしば葬地に巣を作っていた。ここからダキニと狐のイメージが重なったのではないかと。
もっとも中村先生の分析はもっと複雑で錯綜しているのですが、ものすごく単純化いうとこういうことです。
ところで、写真にあるようにダキニ天は、狐にまたがる女神として描かれています。これは、中村先生によると、農耕神としての狐信仰と習合したダキニ天像が水神として蛇信仰と結びついた弁財天の姿から導かれたためだといいます。
持ち物も弁財天を模倣して宝珠と剣を持つのが一般的だったようです。ところが、当苑が所有する豊川稲荷のレプリカの掛け軸を見ると、左手は富と財宝をもたらすとされている宝珠ですが、剣に代わって右手は藁束を天秤棒に掛けて肩で担いでいます。商売繁盛、農耕豊穣神としてのイメージがますます強くなったということですね。ダキニ天も狐も表情が柔和で、恐ろしい鬼神のイメージはかけらも感じられません。
次に「狐」と「稲荷」の結びつきについて考えます。
伏見稲荷大社に近い京都の稲荷山(232m)は、古くから農耕の神が坐す場所とされてきました。それが民間の農耕神としての狐信仰と重なったというわけです。しかも、稲荷山は、ダキニ天を奉じる東寺密教僧の修行の場だったようです。
こうして「稲荷」−「狐」−「ダキニ天」のトライアングルが完成しました。
それにしても、「狐憑き」といい、「おちょぼさん」の愛称で知られる岐阜の「千代保稲荷」にまつわる呪いのわら人形といい、狐には、いまだに暗くてネガティブなイメージがあります。これは中国から伝わった妖狐のイメージが流布したこと、ダキニ天法という、鎌倉時代以降、密教僧がおこなった加持祈祷が東寺から邪法と感じとられていたことと関係があります。
タントリズムを思わせる愛の呪法とか、稲荷信仰にかんして書きたいことはまだたくさんありますが、長くなるのでこのあたりにしておきます。
私たちにとっては、身近な存在である「おいなりさん」ですが、調べれば調べるほど興味があふれてきます。
参考文献
中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』(日本エディタースクール 2001年)

2015.03.25 | 歳時記歴史と文化

歴史あふれるランコース小牧山(第3回)

(写真1)信長の御殿跡といわれる麓の曲輪

(写真1)信長の御殿跡といわれる麓の曲輪

前回、解説した大手道は私のランニング・コースではない。小牧山での私のランニング・コースはいまのところ2つ。いずれのコースも自宅から西へ商店街を一直線に抜け、山麓の東から山を囲むように北へ帯状に広がる武家屋敷の曲輪(くるわ)跡に入る。曲輪とは、堀、土塁、石垣などで防御した平場のこと。
この帯曲輪の北東虎口(こぐち)から入って左、つまり南へ向かうと、土塁と堀で囲まれた一辺100mに及ぶ、ひときわ大きい曲輪のわきを通過する。山上の主郭が信長の私的な居住空間だったのに対し、こちらは信長の公的な御殿空間だったといわれている(写真1)。
帯曲輪を抜けて、市役所旧本庁舎東側の登山口に合流する。登った先に「桜の馬場」と呼ばれている信長時代に作られた広い曲輪跡がある。遊具が設けられ、桜のシーズンには大勢の花見客で賑わうこの場所を通り過ぎ、大手道を横切って西かららせん状に山頂まで続いているのが、こんにち「ランニング・コース」と呼ばれている昭和30〜40年代に整備された約1kmの道である。
緩やかな傾斜を西へ時計回りに登っていくと、「観音洞」(かんのんぼら)と呼ばれる広い曲輪が現れる(写真2)。その名の通り、間々観音(ままのかんのん)が顕現したと言い伝えられる場所である。
広場の奥のすこし小高くなっている場所にクスノキの立派な大木があることから、子どものころは「首吊り公園」と呼ばれる心霊スポットだった。
ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデは何らかの聖なるものが顕れることを「ヒエロファニー」と呼んだ。「観音洞」に観音様が顕れたり、心霊現象がおこるのは、その空間が他の空間とちがうと感じさせる「しるし」を伴うためだ。この場合、「しるし」とは、おそらくクスノキの大樹だろう。クスノキの存在がヒエロファニーをおこし、この場所をある種「聖域」に変えているのだろう。クスノキは、エリアーデ流にいうなら「宇宙木」というところだろう。
クスノキといえば、幼虫がその葉を主食とすることからこのあたりはアオスジアゲハが多く見られる。なんでもチョウが通る道「蝶道」でもあるようだ。またエノキもあることから、ときどきタマムシも見つけられるという。
ちなみに、小牧山城の主郭の石垣に使われているチャートはここから切り出されたものらしい。
観音洞を過ぎると西からS字曲線を描きながら北へ坂を登っていく。「五段坂」と呼ばれている搦め手口からの登山道とぶつかるすこし先に、柵で囲まれた太い幹の常緑樹が現れる。タブノキである。このあたりでは小牧山のみに自生していることから市の木に指定されている。これにあやかって豊寿苑オープンのとき、庭園にタブノキを植樹した。
タブノキは、クスノキ科に属し、気候が温暖な日本各地の、とくに海岸近くに多く、神社の鎮守の森でもよくみられる。こうしたことから、民俗学者で国文学者、歌人でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)は、タブノキは南方から漂着した日本人の祖先の記憶をとどめている聖なる木であると考えた。祖先たちはタブノキで作った船に乗って日本の海岸に漂着したからだという。この説にはあまり根拠が感じられないが、タブノキのようなクスノキ科の植物の強い芳香には、魔を退散させる効用があると信じられていたとはまちがいない。
このタブノキあたりが「ランニング・コース」の第1の難所とすると、第2の難所は北から東に回り込む頂上手前の坂道である。
ふだん私は胸に心拍数モニタを装着して走っている。私の年齢だと、これ以上高いと危険とされる心拍数はだいたい170。このコースを走るときは少なくとも3往復、だいたい5〜7往復にしているので目標心拍数を140〜155ぐらいにしている。ところが、上の2個所にさしかかると160を超えてしまうことも少なくない。後述する「五段坂」コースと比べれば、傾斜は緩やかとはいえ、それなりにはきつい。
早朝は山頂でのラジオ体操に登ってくる高齢の人たちでにぎわう。土日の朝は加えて犬を連れて登る人たちもよく見かける。ランナーも多いが混み合うことはまずない。おしゃれに着飾ったラン・ガールはあまり見たことがない。
(つづく)

前回、解説した大手道は私のランニング・コースではない。小牧山での私のランニング・コースはいまのところ2つ。いずれのコースも自宅から西へ商店街を一直線に抜け、山麓の東から山を囲むように北へ帯状に広がる武家屋敷の曲輪(くるわ)跡に入る。曲輪とは、堀、土塁、石垣などで防御した平場のこと。

この帯曲輪の北東虎口(こぐち)から入って左、つまり南へ向かうと、土塁と堀で囲まれた一辺100mに及ぶ、ひときわ大きい曲輪のわきを通過する。山上の主郭が信長の私的な居住空間だったのに対し、こちらは信長の公的な御殿空間だったといわれている(写真1)

帯曲輪を抜けて、市役所旧本庁舎東側の登山口に合流する。登った先に「桜の馬場」と呼ばれている信長時代に作られた広い曲輪跡がある。遊具が設けられ、桜のシーズンには大勢の花見客で賑わうこの場所を通り過ぎ、大手道を横切って西かららせん状に山頂まで続いているのが、こんにち「ランニング・コース」と呼ばれている昭和30〜40年代に整備された約1kmの道である。

緩やかな傾斜を西へ時計回りに登っていくと、「観音洞」(かんのんぼら)と呼ばれる広い曲輪が現れる(写真2)。その名の通り、間々観音(ままのかんのん)が顕現したと言い伝えられる場所である。

観音洞

観音洞

広場の奥のすこし小高くなっている場所にクスノキの立派な大木があることから、子どものころは「首吊り公園」と呼ばれる心霊スポットだった。

ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデは何らかの聖なるものが顕れることを「ヒエロファニー」と呼んだ。「観音洞」に観音様が顕れたり、心霊現象がおこるのは、その空間が他の空間とちがうと感じさせる「しるし」を伴うためだ。この場合、「しるし」とは、おそらくクスノキの大樹のこと。クスノキの存在がヒエロファニーをおこし、この場所をある種「聖域」に変えているのだろう。クスノキは、エリアーデ流にいうなら「宇宙木」というところか。

クスノキといえば、幼虫がその葉を主食とすることからこのあたりはアオスジアゲハが多く見られる。なんでもチョウが通る道「蝶道」でもあるようだ。またエノキもあることから、ときどきタマムシも見つけられるという。

ちなみに、小牧山城の主郭の石垣に使われているチャートはここから切り出されたものらしい。

観音洞を過ぎると西からS字曲線を描きながら北へ坂を登っていく。「五段坂」と呼ばれている搦め手口からの登山道とぶつかるすこし先に、柵で囲まれた太い幹の常緑樹が現れる。タブノキである。このあたりでは小牧山のみに自生していることから市の木に指定されている。これにあやかって豊寿苑オープンのとき、庭園にタブノキを植樹した。

タブノキは、クスノキ科に属し、気候が温暖な日本各地の、とくに海岸近くに多く、神社の鎮守の森でもよくみられる。こうしたことから、民俗学者で国文学者、歌人でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)は、タブノキは南方から漂着した日本人の祖先の記憶をとどめている聖なる木であると考えた。祖先たちはタブノキで作った船に乗って日本の海岸に漂着したからだという。この説にはあまり根拠が感じられないが、タブノキのようなクスノキ科の植物の強い芳香には、魔を退散させる効用があると信じられていたことはまちがいない。

このタブノキあたりが「ランニング・コース」の第1の難所とすると、第2の難所は北から東に回り込む頂上手前の坂道である。

ふだん私は胸に心拍数モニタを装着して走っている。私の年齢だと、これ以上高いと危険とされる心拍数はだいたい170。このコースを走るときは少なくとも3往復、だいたい5〜7往復にしているので目標心拍数を140〜155ぐらいにしている。ところが、上の2個所にさしかかると160を超えてしまうことも少なくない。後述する「五段坂」コースと比べれば、傾斜は緩やかとはいえ、それなりにはきつい。

早朝は山頂でのラジオ体操に登ってくる高齢の人たちでにぎわう。土日の朝は加えて犬を連れて登る人たちもよく見かける。ランナーも多いが混み合うことはまずない。おしゃれに着飾ったラン・ガールはあまり見たことがない。

(つづく)

2013.08.18 | 歴史と文化

歴史あふれるランコース小牧山(第2回)

写真1 小牧山城大手道

(写真1)小牧山城大手道

小牧山の南麓に建つ市役所の旧本庁舎のすぐわきに小牧山城の大手道がある。横木の階段が一直線に続く別にどうってことのない登り道だ(写真1)。信長時代には現在より1.5mほど広い5.4m幅あり、道の両脇には土塁と塀が連なり家臣団の屋敷が並んでいたらしい。
道を150mほど登っていくと、まっすぐ行く道と右に曲がる道のT字路にぶつかる。右に曲がる道が信長時代の大手道である。道幅は狭くなり、これまたどうってことのないつづら折りのクネクネした道が続く(写真2)。
坂を上り詰めると、茶色いチャートの巨石がところどころに散らばった頂上付近に出る。このあたりから上が上下2段からなる総石垣づくりの主郭があったという場所だ。(写真3)は主郭に入る手前の斜面の石垣発掘調査の様子。2008年撮影。
千田嘉博『信長の城』によると、家臣の屋敷があった山麓から中腹まではあえて防御性の弱い直線道にし、信長がくらした中腹から上は防御にすぐれた屈曲道にしたのだという。そして、山腹から山頂の本丸にかけての中心部分を、幾重にも石垣をはりめぐらすことによって自らの権威と超越性を表現していたというのである(写真4)。
ランニングのとき、山頂部の西側の柵に私はいつも水分補給用のドリンクをぶら下げている。そこから下をのぞくと緑色のネットで長方形に囲われた中に小石が大量に積まれているのが見える。はじめは近年の発掘の時に取り除いた瓦礫を一個所に片づけたものと思っていた。
だが、前掲の千田嘉博『信長の城』を読んでいて、これらは石垣の表面に見えている大きな「面石(つらいし)」の背後で、水はけをよくするために詰めた「栗石(ぐりいし)」(裏込石)とわかった。栗石を使ったことといい、大きな石のすきまに「間詰石」(まづめ)でていねいに整形していることといい、小牧山城の石垣には当時最先端の技術が用いられているという。
それは「穴太積み」(あのうづみ)と呼ばれ、比叡山の麓にある滋賀県の坂本に住んでいた石工集団、穴太衆の技術である。ほかにも、清水寺の本堂のように、山の斜面に長い柱を立てて空中にせり出した建物を建てる「掛け造り」の技法が使われた可能性もあるという。このように信長は畿内からすぐれた技術者集団を招いて小牧山城を作ったと思われる。
※写真5はこのGWに比叡山へ行ったとき、坂本側の麓にある日吉大社で撮影したもの。穴太積みと掛け造りが確認できる。
(つづく)

小牧山の南麓に建つ市役所の旧本庁舎のすぐわきに小牧山城の大手道がある。横木の階段が一直線に続く別にどうってことのない登り道だ(写真1)。信長時代には現在より1.5mほど広い5.4m幅あり、道の両脇には土塁と塀が連なり家臣団の屋敷が並んでいたらしい。

この道を150mほど登っていくと、まっすぐ行く道と右に曲がる道のT字路にぶつかる。右に曲がる道が信長時代の大手道である(写真2)。登るにつれて道幅は狭くなり、どうってことのないつづら折りのクネクネした道が続く(写真3)

(写真2)一直線の大手道を右折

(写真2)一直線の大手道を右折

古井戸跡がある中腹の坂

(写真3)つづら折りの道が続く中腹の坂。

坂を上り詰めると、茶色いチャートの巨石がところどころに散らばった頂上付近に出る。このあたりから上が上下2段からなる総石垣づくりの主郭があったという場所だ。
(写真4)は主郭に入る手前の斜面の石垣発掘調査の様子。

(写真3)発掘調査の様子

(写真4)発掘調査の様子。2008年撮影。

千田嘉博『信長の城』によると、家臣の屋敷があった山麓から中腹まではあえて防御性の弱い直線道にし、信長がくらした中腹から上は防御にすぐれた屈曲道にしたのだという。そして、山腹から山頂の本丸にかけての中心部分を、幾重にも石垣をはりめぐらすことによって自らの権威と超越性を表現していたというのである(写真5)

(写真4)主郭をとりかこむ穴太積みの石垣

(写真5)主郭をとりかこむ穴太積みの石垣

ランニングのとき、山頂部の西側の柵に私はいつも水分補給用のドリンクをぶら下げている。そこから下をのぞくと緑色のネットで長方形に囲われた中に小石が大量に積まれているのが見える。はじめは近年の発掘の時に取り除いた瓦礫を一個所に片づけたものと思っていた。

だが、前掲の千田嘉博『信長の城』を読んでいて、これらは石垣の表面に見えている大きな「面石(つらいし)」の背後で、水はけをよくするために詰めた「栗石(ぐりいし)」(裏込石)とわかった。栗石を使ったことといい、大きな石のすきまに「間詰石」(まづめ)でていねいに整形していることといい、小牧山城の石垣には当時最先端の技術が用いられているという。

それは「穴太積み」(あのうづみ)と呼ばれ、比叡山の麓にある滋賀県の坂本に住んでいた石工集団、穴太衆の技術である。ほかにも、清水寺の本堂のように、山の斜面に長い柱を立てて空中にせり出した建物を建てる「掛け造り」の技法が使われた可能性もあるという。このように信長は畿内からすぐれた技術者集団を招いて小牧山城を作ったと思われる。

(写真6)は、このGWに比叡山へ行ったとき、坂本側の麓にある日吉大社で撮影したもの。穴太積みと掛け造りが確認できる。

(写真5)滋賀県、日吉大社の穴太積みと掛け造り

(写真6)滋賀県、日吉大社の穴太積みと掛け造り

(つづく)

2013.08.17 | 歴史と文化

歴史あふれるランコース小牧山(第1回)

自宅から商店街を通って西へ1.5kmぐらい先に小牧山がある。
今年は織田信長が小牧山に築城して450年の節目に当たるとして市はPRに力を入れている。今年の『豊寿苑夏祭り』のポスターにも市が作成した信長のイラストを許可を取って使わせてもらっている。
この、月代(さかやき)を剃らない総髪の茶筅髷(ちゃせんまげ)、南蛮胴風の漆黒具足にビロード仕立ての緋色のマントをまとったモダンな信長像は、黒澤明監督の『影武者』が作ったものだろう。小牧山時代の信長のイメージにそぐわないと気がするが、若いころ、傾き者(かぶきもの)といわれていた信長のこと、ありえなくもない。だからといって、EXILEみたいなヤンキー系が入った最近の信長のイメージ(元は反町隆史か?)はどうかと思う。
小牧山城はこれまで信長が斎藤氏の美濃を攻略するための足場とした仮の城のように考えられてきた。ところが、近年の発掘調査で、小牧山城は、当時としてはきわめてめずらしい総石垣づくりの主郭(本丸)と、麓には武家屋敷と町屋からなる本格的な城下町だったことがわかってきた。
小牧山は私のランニング・コースなので、発掘調査の進捗状況はよく目にしてきた。なんといっても驚くのは、現在、歴史館が建っている山頂周辺の変貌ぶりだ。かつては木々でおおわれていたが、信長時代の石垣が次々と出てきたことから現在は地表面がむき出しになっている(写真)。
ちなみに現在、小牧城といわれている歴史館は、昭和43年(1968)に名古屋の実業家から小牧市に寄贈された京都の飛雲閣を模した疑似天守閣。いまとなっては、現在の清洲城や墨俣城と称するチープな建造物と同じく、歴史的な遺構と景観を損なうものであり悲しい気分になる。
現在、歴史館の北西に建っている「御野立聖蹟石碑」と書かれた石碑(写真)は、昭和2年(1927)の陸軍特別大演習に視察に訪れた天皇陛下が休息されたのを記念したもの。
千田嘉博氏の『信長の城』(岩波新書)によると、この場所にのちに天守に発展していく櫓台があったことを推測させる上段の高さ4mにも及ぶひときわ高い石垣が築かれていたという。石碑の周囲に集められている巨石は、もともとは信長時代の石垣に使われているらしい。小学生のころ、写生で小牧山を訪れたとき、この石碑、というよりも石碑の下の大石を熱心に描いて変人扱いされたが、信長時代の貴重な石垣の石を描いていたのだ。
陸軍特別大演習は、明治31年(1898)から日中戦争が始まる前年の昭和11年(1936)まで、毎年11月、全国各地をまわっておこなわれていた。
昭和2年にこの地方で行われた大演習は、昭和天皇が天皇陛下になって最初の大演習で、即位礼と大嘗祭を兼ねた大礼の前年に当たる。それは地方視察も兼ねており「君民一体」の「国体」を目に見えるかたちで表現した絶好のイベントだった(原武史『昭和天皇』(岩波新書))。若き昭和天皇を明治天皇の再来とみなすカリスマ化のキャンペーンだったわけである。
こうしてカリスマ化されていく天皇像は昭和初期の超国家主義を育み、この思想に共感した青年将校が、二・二六事件において小牧出身の陸軍教育総監、渡辺錠太郎を「君側の奸」(くんそくのかん)として殺害するにいたる。
皮肉なことに、小牧山の麓には殉職した渡辺錠太郎陸軍大将の胸像が建てられた。現在は生家の菩提寺で、小牧山へ向かうランニング・コース沿いにある西林寺に移されている。ちなみに、渡辺大将の次女がノートルダム清心学園の理事長で修道女の渡辺和子さんである。
私の母方の実の祖父は軍人で、二・二六事件当時、八王子に駐屯していた。母によると、陸軍士官学校の同期だった青年将校から叛乱に加わるよう誘われたが、渡辺大将が保証人だったことから中立的態度で臨んだらしい。二・二六事件後は左遷され、台湾、朝鮮半島、満州、中国各地を転々とし、内地から沖縄戦に向かう海上で最期を遂げた。
(つづく)
小牧山城の段石垣跡

小牧山城の段石垣跡

自宅から商店街を通って西へ1.5kmぐらい先に小牧山がある。

今年は織田信長が小牧山に築城して450年の節目に当たるとして市はPRに力を入れている。今年の『豊寿苑夏祭り』のポスターにも市が作成した信長のイラストを許可を取って使わせてもらっている。

この、月代(さかやき)を剃らない総髪の茶筅髷(ちゃせんまげ)、南蛮胴風の漆黒具足にビロード仕立ての緋色のマントをまとったモダンな信長像は、黒澤明監督の『影武者』が作ったものだろう。小牧山時代の信長のイメージにそぐわない気がするが、若いころ、傾き者(かぶきもの)といわれていた信長のこと、ありえなくもない。だからといって、EXILEみたいなヤンキー系が入った最近の信長のイメージ(元は反町隆史か?)はどうかと思う。

小牧山城はこれまで信長が斎藤氏の美濃を攻略するための足場とした仮の城のように考えられてきた。ところが、近年の発掘調査で、小牧山城は、当時としてはきわめてめずらしい総石垣づくりの主郭(本丸)と、麓には武家屋敷と町屋からなる本格的な城下町だったことがわかってきた。

小牧山は私のランニング・コースなので、発掘調査の進捗状況はよく目にしてきた。なんといっても驚くのは、現在、歴史館が建っている山頂周辺の変貌ぶりだ。かつては木々でおおわれていたが、信長時代の石垣が次々と出てきたことから現在は地表面がむき出しになっている(写真)

ちなみに現在、小牧城といわれている歴史館は、昭和43年(1968)に名古屋の実業家から小牧市に寄贈された京都の飛雲閣を模した疑似天守閣。いまとなっては、現在の清洲城や墨俣城と称するチープな建造物と同じく、歴史的な遺構と景観を損なうものであり悲しい気分になる。

現在、歴史館の北西に建っている「御野立聖蹟」と書かれた石碑(写真)は、昭和2年(1927)の陸軍特別大演習に視察に訪れた天皇陛下が休息されたのを記念したもの。

千田嘉博『信長の城』(岩波新書)によると、この場所にのちに天守に発展していく櫓台があったことを推測させる上段の高さ4mにも及ぶひときわ高い石垣が築かれていたという。石碑の周囲に集められている巨石は、もともとは信長時代の石垣に使われているらしい。小学生のころ、写生で小牧山を訪れたとき、この石碑、というよりも石碑の下の大石を熱心に描いて変人扱いされたが、信長時代の貴重な石垣の石を描いていたのだ。

昭和天皇の巡幸を記念する石碑

昭和天皇の巡幸を記念する石碑

陸軍特別大演習は、明治31年(1898)から日中戦争が始まる前年の昭和11年(1936)まで、毎年11月、全国各地をまわっておこなわれていた。

昭和2年にこの地方で行われた大演習は、昭和天皇が天皇陛下になって最初の大演習で、即位礼と大嘗祭を兼ねた大礼の前年に当たる。それは地方視察も兼ねており「君民一体」の「国体」を目に見えるかたちで表現した絶好のイベントだった(原武史『昭和天皇』(岩波新書))。若き昭和天皇を明治天皇の再来とみなすカリスマ化のキャンペーンだったわけである。

こうしてカリスマ化されていく天皇像は昭和初期の超国家主義を育み、この思想に共感した青年将校が、二・二六事件において小牧出身の陸軍教育総監、渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)を「君側の奸」(くんそくのかん)として殺害するにいたる。

皮肉なことに、小牧山の麓には殉職した渡辺錠太郎陸軍大将の胸像が建てられた。現在は生家の菩提寺で、小牧山へ向かうランニング・コース沿いにある西林寺に移されている。ちなみに、渡辺大将の次女がノートルダム清心学園の理事長で修道女の渡辺和子さんである。

商店街を抜けた門前町にある浄土宗・西林寺

商店街を抜けた門前町にある浄土宗・西林寺

西林寺に安置されている渡辺大将銅像

西林寺に安置されている渡辺大将銅像

私の母方の実の祖父は軍人で、二・二六事件当時、八王子に駐屯していた。母によると、陸軍士官学校の同期だった青年将校から叛乱に加わるよう誘われたが、渡辺大将が保証人だったことから中立的態度で臨んだらしい。二・二六事件後は左遷され、台湾、朝鮮半島、満州、中国各地を転々とし、内地から沖縄戦に向かう海上で最期を遂げた。

(つづく)

2013.08.14 | 歴史と文化

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