平成27年4月25日、おかげさまで豊寿苑は満二十歳の成人式を迎えることができました。
これもひとえに、ご利用者と家族のみなさま、地域社会や関係者のみなさま、それから多くのスタッフたちに支えていただいたからこそと感謝しております。
ついこのあいだまで、桜の花が満開だったかと思うと、いつしか、豊寿苑の庭の木々は新緑におおわれて、藤、牡丹、キリシマツツジの花々が咲きほこっています。
ご利用者のみなさんも、清々しい陽気に誘われてスタッフと共に庭めぐりをしておられました。
菜種梅雨(なたねづゆ)、春の長雨が開けた4月23日、ようやくこいのぼりを上げ、五月人形の飾り付けをおこないました。
こいのぼりは、毎年、桜並木のある緑地に立てます。この日は風が強く鯉たちが勢いよく泳いでいました。
五月人形は、豊寿苑1階食堂脇の和室に飾ります。天井の高さまで届きそうなひな壇と較べると、小ぶりですが、鎧飾りの隣で烏帽子をかぶって腰掛けている武者人形の凜々しい佇まいにはいつもほれぼれとします。
武者人形の両脇にはケース入りの五月人形を飾っています。向かって右は「鍾馗(しょうき)」と「馬」。こんなハードコアなものは現在の五月人形にはなかなかないでしょう。
向かって左には、兜飾りを中心に三段で新旧五月人形を飾りました。
兜飾りの向かって左は「橋弁慶」。牛若丸と対決した京の五条橋での扮装です。右は五月人形の定番「兜差」。
二段目向かって左が「連獅子」。中央が「六法弁慶」。こちらは「勧進帳」安宅の関での山伏姿の弁慶です。右はもちろん足柄山の「金太郎」。現在の金太郎はもっと可愛らしいのですが、こちらはもっとキリッとしています。
下段中央は「牛若丸」です。「橋弁慶」と並べて飾りたかったのですが、スペースの関係で今年はこうせざるをえませんでした。
そして「牛若丸」の両脇が、市川團十郎の当たり役「暫」(しばらく)です。歌舞伎での異形からするとずいぶんと可愛らしい姿です。
施設での生活はとかく単調になりがちなので、こうやって季節感を演出することも私たちの大切な仕事だと思ってやっています。(後片づけがたいへんですが…。)
2015.04.27 | 歳時記
桜並木に近づくに連れて、ご利用者の表情がどんどん変わってきました。桜の花の満開の下では、みなさん満面の笑み。
2015.04.02 | 歳時記
平成27年3月19日(木)、豊川稲荷祭をおこないました。
例年ならば旧暦2月の初午(はつうま)ですが、今年はその日が3月31日に当たっていたため、前倒しして、旧暦1月の三の午に当たる19日になりました。
現在、豊寿苑が建っている場所には以前、毛織物工場があって、豊川稲荷の祠はその時代からそこにありました。今年は運悪く雨降りだったことから、場所を変えて豊寿苑内の和室前でおこないました。
本山は愛知県豊川市の豊川稲荷です。鳥居はありますが京都の伏見稲荷のような神社ではなく曹洞宗の寺院です。正式には「円福山豊川閣妙厳寺」(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)というそうです。だから、お祭りには曹洞宗のお坊さんが来られてお経を唱えてご祈祷します。
紅白ののぼりに書かれてあるように「吒枳尼真天」をお祀りしています。これは「だきにしんてん」と読み、元はインドの民間信仰の下級女神で、平安時代に密教と共に入ってきました。
では、なぜ「ダキニ天」が「狐」と結びついたのでしょうか。
この点について、私が東京で編集者をしていた頃、お世話になった名著『狸とその世界』で知られる元立正大学教授で、昨年お亡くなりになった中村禎里先生が『狐の日本史』(日本エディタースクール 2001年)の中でこう推理しています。
ダキニは元来、人の死体を食らう鬼神でした。狐もまた、動物の死肉を食らい、しかもしばしば葬地に巣を作っていました。ここからダキニと狐のイメージが重なったのではないかと。
もっとも中村先生の分析はもっと複雑で錯綜しているのですが、ものすごく単純化していうとこういうことです。
ところで、写真にあるようにダキニ天は、狐にまたがる女神として描かれています。これは、中村先生によると、農耕神としての狐信仰と習合したダキニ天像が水神として蛇信仰と結びついた弁財天の姿から導かれたためだといいます。
持ち物も弁財天を模倣して宝珠と剣を持つのが一般的だったようです(『狐の日本史』表紙参照)。ところが、当苑が所有する豊川稲荷のレプリカの掛け軸を見ると、左手は富と財宝をもたらすとされている宝珠ですが、剣に代わって右手は藁束を天秤棒に掛けて肩で担いでいます。商売繁盛、農耕豊穣神としてのイメージがますます強くなったということですね。ダキニ天も狐も表情が柔和で、恐ろしい鬼神のイメージはかけらも感じられません。
次に「狐」と「稲荷」の結びつきについて考えます。
伏見稲荷大社に近い京都の稲荷山(232m)は、古くから農耕の神が坐す場所とされてきました。それが民間の農耕神としての狐信仰と重なったというわけです。しかも、稲荷山は、ダキニ天を奉じる東寺密教僧の修行の場だったようです。
こうして「稲荷」−「狐」−「ダキニ天」のトライアングルが完成しました。
それにしても、「狐憑き」といい、「おちょぼさん」の愛称で知られる岐阜の「千代保稲荷」にまつわる呪いのわら人形といい、狐には、いまだに暗くてネガティブなイメージがあります。これは中国から伝わった妖狐のイメージが流布したこと、ダキニ天法という、鎌倉時代以降、密教僧のおこなった加持祈祷が邪法とされていたことと関係があります。
タントリズムを思わせる愛の呪法とか、稲と雷神の関係とか、戦国武将と稲荷信仰とか、稲荷信仰にかんして書きたいことはまだたくさんありますが、長くなるのでこのあたりにしておきます。
私たちにとっては、身近な存在である「おいなりさん」ですが、調べれば調べるほど深い歴史と文化と信仰があぶり出されてきて興味は尽きません。
《参考文献》
・中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』(日本エディタースクール 2001年)
しばらくのごぶさたでした。
ご報告したように、今年1月20日頃から当苑でインフルエンザの集団感染が発生しました。スタッフ一丸となって治療と感染の拡大防止に努め、ようやくインフルエンザが終息してきたと思ったら、今度は胃腸風邪が流行。
日頃から未然の感染対策を心がけてきたつもりでしたが、このような結果を招いてしまったのは、私たちの取り組みに足りないところがあったということです。深く反省し、教訓として今後の備えに活かしていきたいと思います。
今回の集団感染のきっかけは、1月18日(日)に開催した「新年会」でした。
新年会は、ご利用者とその家族の方々が席を並べて食事をしながらめでたい演し物を楽しんでいただく毎年恒例の行事です。今年はご利用者とご家族、合わせて約100名の方々に出席いただきました。
今年は沖縄民謡の濱盛重則(はまもりしげのり)さん(通称ハマちゃん)と宮野ほたるさん、そして、エイサーを演じる二人の若者が来てくれました。
三線(さんしん)の弾き語りで次々と繰り出される、明るく、ときにペーソスに溢れた島唄、童謡・唱歌たち。後半は沖縄の派手な衣装に身を包んだ男女の若者二人は、ハマちゃんの歌に合わせて雄壮な太鼓パフォーマンスを披露してくれました。アンコールでは、私を含むスタッフたちも音楽に合わせて沖縄踊りをしながらご利用者の席をまわりました。例年以上に、にぎやかで盛り上がったイベントでした。
ところが、その日の夜当たりからご利用者に体調不良者が出てきました。検査してみたところインフルエンザであることが判明。おそらくご家族を通じてウィルスが持ち込まれたと思われます。新年会を開くようになって20年近くになりますが、このようなことは初めてでした。
小牧駅から徒歩2分で、いつでも気軽に家族と会える風通しのよさが当施設の売りでもあったのですが、今回はそのことが仇になってしまったようです。
今回のことで一部のスタッフから、集団感染のあるなしにかかわらず、インフルエンザの季節には家族や知人の面会を制限すべきだとの意見も出ました。しかし、家族から引き離され、ただでさえ寂しい思いをされているにちがいないご利用者なのに、面会の機会を制限してしまうというのはあまりに不憫です。現場としてリスクを最小限に抑えたい気持ちは理解できますが、それは子どもたちが事故を起こさないように公園から遊具を撤去してしまうのと似て、本末転倒だと思います。
2月3日の節分の日、インフルエンザが終息に向かってきたこともあって、厄を祓いたいという願いから豆まきの行事を実行しました。
日本人は古くから、良いものも、悪いものも、共同体の外からやって来る、目には見えない空気のようなもの、「気(キ)」であると考えていました。そして、良い「気」は 〈カミ〉 、悪い「気」は 〈鬼(キ/オニ)〉 とされました。悪い「気」の最たるものが「病気」です。
現代の医療では病気は、人間の科学と技術によって制圧されるべきものです。しかし、昔の人たちにとって病気を治すとは、外へ追い出すこと、つまり払う=祓うことでした。豆まき/鬼やらいはそういうものでした。〈鬼〉をおだてて〈カミ〉として「祀(まつ)り上げる」ことが「祭り」の起源とされますが、〈鬼〉を外に追い出す代わりに、内に封じ込めるという違いはありますが、考え方は同じでしょう。
今回、集団感染という苦い経験をして、人間が自分たちの都合のいいように自然をコントロールしようとする考えがいかに思い上がりであるかということを思い知らされました。どんなに心がけていても、災厄が身に降りかかることは避けられません。いまさらリスク・マネージメントというヤボな言葉を使うつもりはありませんが、人間は最終的には自然に逆らえないことを受けとめたうえで、災厄とどう対していくかが問われているのだと思います。
年も押し迫った平成26年12月26日。
豊寿苑、今年最後のイベント「もちつき大会」をおこないました。
スタッフの中で臼と杵で餅を搗いた経験がある者はほとんどいません。
厨房から熱々の餅米が蒸し上がってきたら、これをすかさず石臼に投入します。
餅を搗く前に、餅米を杵で臼に押しつけしっかりとこねまわします。これは腰を入れないとできない作業なので、もっぱら私とベテランの元運転手がおこないました(地味!)
そのあと、いよいよ見せ場の餅搗きです。
返しの役は、数少ない餅搗き経験のある女性スタッフが担当。ところが、出てくる男性スタッフはどいつもこいつもへっぴり腰でフニャフニャ。
見るに見かねて、餅搗き役に女性スタッフが名乗りを上げました。これをきっかけに、次々と女性スタッフたちが餅搗きに参戦。
多少腰が引けていますが、男性スタッフたちに比べれば、勢いと元気さがあってサマになっていました。応援していたお年寄りのみなさんも大盛り上がり。その間も、男子たちは「ヨイショ 」の掛け声(ならぬ脱力的なつぶやき)で場を涼しくしてくれました。
「はじける女子」と「草食系男子」。
豊寿苑の女性上位の縮図がそのまま再現されました。
搗き上がった餅は餅取り粉をまぶした板の上に運ばれます。これを女性スタッフたちが顔を粉まみれにしながら和気あいあいと丸餅や花餅用の長餅に仕立ててくれました。
そして、三臼めで、スタッフのあまりに腰の引けた搗きっぷりに業を煮やした男性のご利用者が、臼のところに現れ杵を手に取ると、やにわに車イスからスクッと立ち上がったではありませんか!
施設ではずっと車イスで過ごしておられた方です。あわてたスタッフが介添えに付きましたが、その見事な搗きっぷりに周囲から喝采が沸き起こりました。
すると、我も我もと殿方連が名乗りを上げました。介添え役のスタッフはヒヤヒヤしながらもうれしくてたまらない様子でした。
こうして搗き上がった餅は、残念ですが、お年寄りのみなさんに食べていただくわけには参りません。
その代わりに、伸ばして約1㎝幅のきしめん状にした紅白餅を小さくちぎって、木の枝に巻き付けて、飛騨高山の名物、花餅(もちばな)を作っていただきました。
ところで、きょうは平成26年12月30日。豊寿苑の仕事納めです。
今年1年、たいへんお世話になりました。
来年もよろしくお願い申し上げます。
よいお年をお迎えください。
2014.12.30 | 歳時記