双寿会からのお知らせ

『こまきの劇場・映画文化を語る』に出演しました

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令和2年1月12日(日)、こまき市民文化財団の主催による、小牧市公民館講堂で開かれた『〈夢みるシネマ〉こまきの劇場文化・映画文化』のトークにゲストとして出演しました。

前半は、かつて小牧にあった2つの劇場のうち、カムカム劇場を経営していた坂(ばん)徳弘氏の未亡人である田鶴子さんらを中心に当時の劇場・映画文化を語り合うトーク・コーナー。
後半は、86年公開のカルト映画の傑作、林海象(はやしかいぞう)監督の『夢みるように眠りたい』を、監督を招いて貴重な16ミリ・フィルムで上映するという企画です。

年末に文化財団の浅井さんからこの話をいただいた時、カムカム劇場小牧劇場についてなら、61年生まれの私より年長の適任者がおられるのではないかとお話ししました。
しかし、映画『夢みるように眠りたい』を東京でリアルタイムに観ており、80年代のアングラ系サブ・カルチャーを語れるという点では適任なのかもと思い直し引き受けることにしました。

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小牧の2つの劇場は、終戦後、小牧の飛行場が進駐軍に接収された関係で、米兵たちの娯楽施設としても使われ洋画も上映されたそうです。
劇場周辺には歓楽街ができて、子どもが近寄ってはいけない「悪所」だったと聞きました。

トークでは、当時、米軍基地や米軍関係の仕事に就いており、現在は豊寿苑をご利用いただいている90代の方々から伺った貴重なエピソードを披露する予定でした。
ところが、トークが始まるや、86歳になられたさんは、当時の思い出が次々とよみがえってきて話が止まらなくなってしまい、私の時間はほとんど残されていませんでした。

進駐軍による小牧のモダン文化の痕跡について語りたかったのですが、客層の上限がせいぜい70代だったせいで、進駐軍が撤退した昭和33年(1958)以降の映画館にまつわる思い出話に終始してしまったことも思惑とはずれました。
もっとも、私が語る機会はこれからいくらでもあるでしょうから、喜んで大先輩方にお譲りしたのですが…。

映画について語る林海象監督

映画について語る林海象監督

後半の映画上映では、観客の一人として約35年ぶりに『夢みるように眠りたい』と対面でき感慨ひとしおでした。

つよく印象に残ったのは、映画製作に関わり出演もしていたミュージシャンあがた森魚さんがいかにも好みそうな、江戸川乱歩の探偵小説などを掲載した(ほぼ)戦前の雑誌『新青年』の、幻想怪奇色ただよう昭和モダニズム的な世界が浅草を舞台に絶妙に描かれていることでした。

アフタートークでは林海象監督から、27歳の時、唐十郎の劇団「状況劇場」出身で当時は無名だった佐野史郎を主役に抜擢して、モノクロ、16ミリ、大部分をサイレントで自主製作した実験色の濃いこの映画にまつわる数々の興味深いエピソードを聞くことができました。

80年代、東京で暮らす20代だった私は、毎週、雑誌『ぴあ』をチェックして、小劇場やライヴハウスでおこなわれるマイナーな映画、演劇、音楽、展覧会などに足繁く通っていました。

バブル時代というと、金に飽かしたきらびやかなブランド志向の側面ばかりが取りざたされますが、そうした金満主義的で薄っぺらな文化や風俗に吐き気がするほどの嫌悪感を持っていた若い人たちも一定層いて、彼らがアマチュアイズムやアナクロニズムを逆手にとってクールなセンスに昇華した、こうした映画を支持したのだと思います、個人的実感として。
同じ頃、新鋭のジム・ジャームッシュ監督が撮った低予算のモノクロ映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がヒットしたのも同じ理由からでしょう。

会場入口で。林監督と筆者

会場入口で。林監督と筆者

その後のうちあげでは、名古屋コーチンすき焼き鍋を囲んで、監督とうち解けた会話をする機会が得られて、かけがえのない時間を過ごせました。

また、企画された浅井さんをはじめ、こまき市民文化財団の若い世代の人たちが、通俗的で土臭くなりすぎない、アートセンスにあふれた「小牧」の文化を創造していきたいという思いもよく伝わってきました。
道は険しいと思いますが、お手伝いできることでもあれば喜んで協力させてもらうつもりです。

令和2年1月12日(日)、こまき市民文化財団の主催による、小牧市公民館講堂で開かれた『〈夢みるシネマ〉こまきの劇場文化・映画文化』のトークにゲストとして出演しました。
前半は、かつて小牧にあった2つの劇場のうち、カムカム劇場を経営していた坂(ばん)徳弘氏の未亡人である田鶴子さんらを中心に当時の劇場・映画文化を語り合うトーク・コーナー。
後半は、86年公開のカルト映画の傑作林海象監督の『夢みるように眠りたい』を、林監督を招いて貴重な16ミリ・フィルムで上映するという企画です。
年末に文化財団の浅井さんからこの話をいただいた時、カムカム劇場と小牧劇場についてなら、61年生まれより私より年長の適任者がおられるのではないかとお話ししました。
しかし、映画『夢みるように眠りたい』を東京でリアルタイムに観ており、80年代のアングラ系サブ・カルチャーを語れるという点では適任なのかもと思い直し引き受けることにしました。
小牧の2つの劇場は、終戦後、小牧の飛行場は進駐軍に接収された関係で、米兵たちの娯楽施設としても使われ洋画が上映されたそうです。
劇場周辺には歓楽街ができて、子どもが近寄ってはいけない「悪所」だったと聞きました。
トークでは、当時、米軍基地や米軍関係の仕事に就いており、現在は豊寿苑をご利用いただいている90代の方々にインタビューした貴重なエピソードを披露する予定でした。
ところが、トークが始まるや、86歳になられる坂さんは当時の思い出が次々とよみがえってきて話が止まらなくなってしまい、私の時間はほとんど残っていませんでした。
私としては、進駐軍による小牧のモダン文化の痕跡について語りたかったのですが、客層の上限がせいぜい70代だったせいで、進駐軍が撤退した昭和33年(1958)以降の思い出話に終始してしまったことも思惑とずれました。
もっとも、私が語る機会はこれからいくらでもあるでしょうから、喜んで大先輩方にお譲りしようと腹に納めた次第です。
後半の映画上映では、観客の一人として約35年ぶりに『夢みるように眠りたい』と対面でき感激ひとしおでした。
つよく印象に残ったのは、映画製作に関わり出演もしていたミュージシャンのあがた森魚さんがいかにも好みそうな、江戸川乱歩の探偵小説などを掲載した雑誌『新青年』の、幻想怪奇色ただよう昭和モダニズム的な世界が絶妙に描かれていることでした。
アフタートークで林海象監督は、27歳の時、唐十郎の劇団「状況劇場」出身で当時は無名だった佐野史郎を主役に抜擢し、モノクロ、16ミリ、一部サイレントで自主製作した実験色の濃いこの映画にまつわるエピソードはたいへん興味深かったです。
80年代、東京で暮らす20代だった私は、毎週、雑誌『ぴあ』をチェックして、小劇場やライヴハウスでおこなわれるマイナーな映画、演劇、音楽、展覧会などに足繁く通っていました。
バブル時代というと、金に飽かしたきらびやかなブランド志向の側面ばかりが採り上げられますが、そうした金満主義的で薄っぺらな文化や風俗に対して嫌悪感を持っていた若い人たちが、アマチュアリズムやアナクロニズムを逆手に取ったセンスのよさが際立つこうした映画を支持したのだと思います。
同じ頃、ジム・ジャームッシュ監督が撮った低予算のモノクロ映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がヒットしたのと同じ理由です。
その後のうちあげでは、名古屋コーチンすき焼き鍋を囲んで、林監督とうち解けた会話をする機会が得られて、かけがえのない時間を過ごせました。
また、企画された浅井さんをはじめ、こまき市民文化財団の若い世代の人たちが、通俗的で土臭くなりすぎない、アートセンスにあふれた「小牧」の文化を創造していきたいという思いもよく伝わってきました。
道は険しいと思いますが、お手伝いできることでもあれば喜んで協力させてもらうつもりです。

2020.01.14 | カルチャー