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写真集『ふるさと小牧』発売!〜私も祖父・嘉一について執筆しました

『保存版ふるさと小牧』監修 入谷哲夫 郷土出版社(クリックで拡大)

『保存版ふるさと小牧』監修 入谷哲夫(郷土出版社)A4判(210×297)の豪華本です。(クリックで拡大)

3月14日、小牧市の市制60周年を記念して、郷土出版社から『保存版ふるさと小牧』という写真集が限定1500部で発売されました。

これは、昭和初期から現在までの小牧の歩みを、人びと、街並み、文化、風俗、自然、産業など、400枚以上の貴重な写真と解説を通してたどったものです。

価格は9,990円(税込)と安いとはいえませんが、古い小牧を知る人たちにはとても懐かしく、現在の小牧市しか知らない人たちには別世界を見るような驚きにあふれた、価値のある写真集だと思います。

かつての小牧駅。この駅から私も通学しました。(クリックで拡大)

かつての小牧駅。この駅から私も通学しました。(クリックで拡大)

監修は、地元小牧の郷土史の第一人者である入谷哲夫先生

実は私、塚原立志も入谷先生から声を掛けていただき、この本でコラムを書かせてもらっています。

「塚原嘉一 菊と毛織物」というのがそれです。

筆者が書かせてもらったコラム「塚原嘉一 菊と毛織物」。(クリックで拡大)

筆者が書かせてもらったコラム「塚原嘉一 菊と毛織物」。内容はこのホームページとは異なります。買って読んでみてください。

おわかりと思いますが、塚原嘉一は私の祖父です。

嘉一は、大正6年(1917)、23歳の時に手織機一台で塚原毛織を起こし、昭和10年(1935)には従業員500人を抱えるまでになった実業家として知られています。

塚原嘉一(昭和16年頃)

塚原嘉一(昭和16年頃)

私が生まれた時、嘉一はすでにこの世の人ではありませんでした。

しかし祖母や家族、親戚の人たちから嘉一は単なる成り上がりの商売人ではなく、私財をなげうって小牧の町づくりに尽くしてきたこと、長く町会議員を務め、戦時中は町長にやったが、敗戦により公職追放されたことなどを聞かされていました。

塚原毛織工場内部(昭和10年頃)(クリックで拡大)

塚原毛織工場内部(昭和10年頃)(クリックで拡大)

しかし、いくら事業に成功したからといって、嘉一は、なぜ、あれほどまでに金銭と行動の両面において社会貢献活動に尽力したのか、単なる名誉欲のためととらえるのでは割り切れないものがありました。

今回のコラムのために、嘉一についての資料を当たっていてわかったのは、嘉一の強い社会貢献意識の奥には天皇陛下への尊崇の念があったということです。

昭和10年頃の塚原毛織工場。画面中央に木造3階建ての嘉一邸。左の煙突付近が現在の豊寿苑正面玄関に当たる。左上には小牧山。(クリックで拡大)

昭和10年頃の塚原毛織工場。画面中央に木造3階建ての嘉一邸。左の煙突付近が現在の豊寿苑正面玄関に当たる。左上には小牧山。まわりは一面、田畑が広がっていたんですね。(クリックで拡大)

嘉一が満33歳を迎えた昭和2年(1927)11月、尾張北部一帯で、天皇陛下をお迎えして陸軍特別大演習がおこなわれました。その折、花道真道流の師範でもあった嘉一は、現在の小牧高校がある御座所(天皇陛下の休憩室)に大輪白菊の生花を供することを命ぜられました

この経験が嘉一の人生に大きな影響を与えました。

すなわち、国のため、社会のために尽くすことこそ、この身に余る名誉のご恩返しであると。

いまも残る塚原嘉一邸。3階が「光栄館」

いまも残る塚原嘉一邸。最上階が「光栄館」。(クリックで拡大)

昭和9年(1934)に建てられ、現在は愛知県近代文化遺産に指定されている木造三階建ての自宅の3階は、私が子どもの頃は「入らずの場所」とされていました。常時、雨戸が閉まっていて真っ暗で埃っぽい和室二間が連なった薄気味悪い場所でした。

その和室は「菊ノ間」「桐ノ間」といい、合わせて「光栄館」と嘉一が名づけていたことを今回、初めて知りました。私の親も知りませんでした。

私は今回、竣工直後に撮られた3階の写真を発見し『ふるさと小牧』で初公開しています。

これがその写真です。

塚原邸3階「光栄館」の竣工当時の写真(昭和10年頃)(クリックで拡大)

塚原邸3階「光栄館」の竣工当時の写真(昭和10年頃)(クリックで拡大)

では、くわしく解説していきます。

これは塚原邸3階の西側の十畳間「菊ノ間」の全景です。

床の間は南面し、向かって左には、神武天皇の肖像が描かれた掛け軸、隣には「天照皇大神」(てんしょうこうだいじん)つまり「あまてらすおおみかみ」と墨書された掛け軸が掛かっています。

床の間の手前には三方(さんぽう)が置かれ、わきには榊(さかき)が立てられています。

榊と御神酒を載せた三方のあいだ、掛け軸の手前に立てかけられた縦長の板は、たぶん御幣(ごへい)だと思います。

床脇(とこわき)には、黒っぽい布で覆われた台の上に御座所に生花を供した際に用いた花器が置かれています。その上の長押(なげし)にはご真影、後方に日本国旗が掲げられています。地袋(じぶくろ)の上に飾られているのは香炉(こうろ)でしょうか。

写真の左側の壁には「光栄館」と書かれた額書、その隣に御座所での生花の写真(下の図版)が額に入れて展示されています。

「光栄館」に展示されていた御座所と大輪白菊の生花の写真(昭和2年)。(クリックで拡大)

「光栄館」に展示されていた御座所と大輪白菊の生花の写真(昭和2年)。(クリックで拡大)

もうおわかりかと思いますが、「光栄館」は、天皇陛下に生花を供した「光栄」の記念館でした。

それ以上に、そこは天皇陛下を神としてお祀りした、いわば大きな神棚、あるいは私設神社だったのです。

以前、近代化遺産の調査に来られた名市大の先生から、3階には心柱が通っておらず望楼を載せた構造であること、風通しがよくなく生活の空間としては適していないことを指摘されました。

なるほど、人ではなく神が坐す空間だったから、そんな造りだったのですね。

『ふるさと小牧』に載っていた昭和31年に西から撮影された塚原毛織工場。長く小牧のシンボルだった煙突、その先に嘉一邸が見える。塚原家にはない貴重な写真でした。(クリックで拡大)

昭和31年に撮影された塚原毛織(この時代は小牧紡織)。長く小牧のシンボルだった煙突、その先に嘉一邸が見える。撮影場所はいまの名鉄小牧ホテルあたりでしょうか? 塚原家にはない貴重な写真で『ふるさと小牧』に載っていました。(クリックで拡大)

戦時中、塚原毛織工場が軍需工場として徴せられることになった時、嘉一は全織機を進んで国に供出しました。嘉一にとってそれが本望だったのではないでしょうか?

一代で財を築いた嘉一は、金儲けをする自分に負い目を感じていたのだと思います。だから儲けた分を、世のため、人のために還元して恩返しをすることで自分を保っていた。しかし、社会とか、人とかではあまりに抽象的でイメージしづらいところがあります。だからこそ、国体を実体化した天皇陛下というフィルターが必要だったのだと思います。

2015.04.08 | 歴史と文化