第4章 「介護が必要な方の入院は難しい」
看護師の感染が判明後、最初のPCR検査を実施した翌12月11日、金曜日の午後8時前、相談員から私のところに連絡がありました。今しがた検査結果が送られてきて、咳や発熱症状があった入所者4人のうち、3階の1人を除く3人に陽性反応が出たとのことでした。
急いで施設に駆けつけると、相談室では検査結果を知らせに来た診療所の院長、2人の相談員、施設の看護師が深刻な表情で向き合っていました。私も加わって5人で今後の対応について夜遅くまで話し合いがおこなわれました。
まずは感染者の入院先の確保です。
高齢者施設で入所者が感染した場合、重症化リスクが高いことから、厚労省は原則入院としています。
さっそく陽性が判明した入所者3人の家族に来てもらい、院長が本人の状態と今後の対応について説明したうえで、転院先をいくつか当たりました。しかし、午後9時過ぎだったこともあってか、すべて断られました。「認知症がある人は受けられない」とけんもほろろだったそうです。
折悪しく、週末の夜遅い時間だったことから、管轄の春日井保健所、愛知県高齢福祉課、小牧市介護保険課へは翌12日、土曜日の朝に連絡を入れました。
同じ日の朝、咳と微熱の症状で急きょ隔離した4階入所者についても、抗原検査の結果、陽性と判明。これで入所者では4人目の感染が確認されました。
翌13日、日曜日、4階入所の2人に新たに感染が確認されました。これで看護師を除いて6人目。
くどいようですが、高齢者施設で感染者が出た場合、原則入院となります。入院調整をおこなうのは保健所の役目です。しかし保健所からいわれたのは「介護が必要な方の入院は難しい」という言葉でした。
要するに「介護が必要な人たち」を対象とする豊寿苑の感染者は入院できないといいたいのでしょう。
これより少し後の話ですが、保健所の担当者と入院先の受け入れについて話し合っていたとき、施設での感染者より医療体制がない在宅の感染者を優先して入院調整していると聞かされました。
一理ありますが、重症化リスクの高い人たちが近い距離で集団で生活している施設はクラスターの温床といってよく、そのほうがよほど危険です。しかも、”三密”を避けるといった危険認識が希薄な人たちなのです。
結局、この日も、次の日も感染者の入院先は見つかりませんでした。この時分になると入院先の探すのに保健所は頼りにならないと相談員たちはあきらめていました。感染者は6人は37度台前半の微熱で状態が比較的安定していたのがせめてもの救いでした。
週が明けた14日朝、院長のもとにさくら病院から電話があり、最初に陽性が確認された3人のうちの2人を受け入れてもらえることになりました。しかし、入院できたのはこれが最後でした。
この続きは次回
2021.06.09 | エッセイ
第3章 念のための検査で感染者発生
さて、看護職員の感染が確定的になった9日、水曜日に1人、翌10日に3人の入所者の咳と発熱が確認されました。4人はすぐさま個室への移動隔離措置がとられました。
最初に発熱した1人は寝たきり度の高い人たちが中心の4階の方、その他の3人は、要介護度3以下の人たちが中心の3階の方1人、認知症が重度の人たちが中心の2階の方2人という内訳。
看護師の業務は、自力での栄養摂取が困難で経管栄養が必要な人たち、豊寿苑でいうと4階入所の人たちへの処置や対応が多くをしめます。
ただ土日で看護人員が手薄だったため、その看護職員は2階と3階の人たちについても検温や簡単な処置などをおこなっていました。とはいっても、勤務時間の大半は4階にいました。
右の事情から、私たちは4階の入所者と配属職員をハイリスクとみて、そこに重点を置いた検査をおこなうことにしました。
2階と3階の熱発者については、「ほとんど接触がなかったから、たぶん大丈夫だろうけれど安心感を得るために念のため」ぐらいの気持ちで検査してもらうことにしました。
検査は、10日から11日にかけて、発熱外来を受けている併設診療所の内科医である院長がPCRと抗原検査でおこないました。
診療所に在庫がある検査キット数が限られていたことから、まずは発熱症状のある入所者4人、全国老人保健施設協会が示したマニュアルに従って、”濃厚接触者” でないが、”濃厚接触が疑われる者” として看護職員と15分以上接触した介護職員数名のPCR検査を優先しておこないました。
ちなみに、マニュアルでは、”濃厚接触者” でない場合、入所者についてはPCR検査をおこなう必要はないとあったので、それに従いました。
その際、気がかりだったのは、高齢者施設で陽性者が出た場合、保健所等の指示により、対象入所者・職員へのPCR検査を実施とあったことです。
この時の検査は、保健所の指示によらず、施設が同一法人の診療所に依頼して自主的におこなったものです。
PCR検査で保険が適用されるのは感染の疑いがあり受診が必要と医師が判断した場合のみです。したがって、症状がなく濃厚接触者ではない入所者や職員については、検査費用(1回あたり献体料18.000円、検査判断料1,500円)がかかることになり、これらがすべて施設側の負担になるのかと思うとクラクラしてきました。そんなことも言ってられない状況であることぐらい、わかってはいるのですが…。
この続きは次回
2021.06.09 | エッセイ
第2章 保健所の「濃厚接触者はいない」は当てにならない
新型コロナ・ウイルスという目に見えない脅威への不安から、うわさやデマはこうもたやすく広まるものかと痛感した私は、情報の透明性と可視化は生命線であると悟りました。
この時はまだ、クラスターが発生するとは夢にも思っていませんでしたが、利用者の家族、保健所、自治体、関係諸機関などに対して、早い段階から文書を基本とする情報公表に踏み切ったことで風評被害を最少に抑えられたと考えています。
以下では、看護師の感染から入所者への最初の感染が判明するまでの流れを思い出しながら書いてみます。
12月4日、金曜日は公休だったので看護師は別世帯を構える母親に付き添って市役所へ行きました。翌5日、土曜と、6日、日曜は日勤業務に入りました。6日は午前中から風邪っぽい感じがでしたが、日曜のため看護職員の人員が少なかったことから終業時間まで勤務しました。
週明けの7日は公休。8日、火曜になっても微熱が治まらず、念のため病欠にしました。
この日、母親が体調不良のため市内の診療所で受診したところ、新型コロナ陽性が判明。そのまま、小牧市民病院に緊急入院しました。
本人からの連絡を受けて、その日の夜、併設診療所に来てもらって抗原検査をしたところ、陽性反応が出ました。翌9日、水曜日、PCR検査でも陽性の結果が出て新型コロナの感染が確定的になりました。
9日の午前11時頃、本人から連絡が入りました。いわく、同居の家族は陰性だったので自宅療養となり、自分はホテルで10日間療養ののち、自宅で3日間過ごして、症状がなければ仕事に復帰していいと保健所から指示されているとのことでした。現在も症状は比較的軽く元気な様子でした。
その際、施設の入所者と職員に濃厚接触者はいないとの保健所の見解を聞かされ、まずはほっとしました。看護職員に陽性反応が確認された時点で併設診療所から保健所へ報告しましたが、保健所による看護職員への行動調査の結果についてはプライバシー保護の観点から、保健所から直接、施設に報告はありませんでした。
ちなみに、濃厚接触者とは、一般的に①手で触れることのできる距離で、②必要な感染予防策無しで、③感染者と15分以上の接触があった人のことをいいます。
看護職員は勤務中、ずっとマスクをしており、昼食は宿直室で一人でとっていました。しかも、土日で看護人員が手薄だったことから入所者一人あたりにかける処置時間はごく短かったと聞きました。つまり、①はあてはまるが、②と③はあてはまらない。よって、施設に濃厚接触者はいなかったというわけです。
最近になって西村康稔経済再生担当大臣が、屋外でマスクを付けていても感染する事例が相次いでいると発言して波紋を呼びました。保健所がおそらく業務の都合上、使っているに過ぎない “濃厚感染者” という言葉を信じて痛い目をみた身としては「それをもっと早く言ってよ」といいたいところです。
そういえば、加藤勝信官房長官が厚労大臣のときに「37.5度以上の発熱が4日以上」を基準ととらえるのは国民の誤解だと答弁してひんしゅくを買いましたが、同じように濃厚接触者も感染リスクの”目安”であって”基準”ととらえたのは私の”誤解”だったと答えるんでしょうね、現在の政府でしたら。
この続きは次回
2021.06.09 | エッセイ
第1章 不安心理がもたらす残酷さ
当施設に勤務する看護職員が、同居していない母親を通じて新型コロナウイルスに感染していたようだ、との報告を相談室から受けたのは2020年12月8日、火曜夜のことでした。翌9日朝、PCR検査の結果が陽性と出て感染は確定的になりました。
その日の朝、私の元を高年の女性清掃職員が血相を変えて訪ねて来ました。
なんでも、今朝は隣にある系列診療所の当番だったので2階病棟を掃除していたところ、病棟の看護職員から「豊寿苑でコロナが出たから近づかない方がいいよ」といわれたそうです。
それは事実なのか? 知っていたなら、なぜ私たちに教えてくれなかったのか、という強い調子でした。
今回、感染が判明した看護職員の抗原検査とPCR検査は、前日の8日夜に系列診療所でおこなわれました。おそらく、病棟の看護職員はその場で結果がわかる抗原検査で陽性になったことをどこかから漏れ伝え聞いたのでしょう。そして、あろうことか、軽々しくも清掃職員に話してしまったのです。
抗原検査は精度が劣ることから職員たちへの説明はPCR検査の結果が出てからと考えていただけに、いきなり出端を挫かれました。
風評被害、パンデミックと同じく恐ろしいインフォデミックは、こうやって広がるものかと、戦慄しました。
件(くだん)の清掃職員には、(1)職員のコロナ感染を法人として認定したのはPCR検査の結果が出た今朝であること、(2)保健所による本人への行動調査の結果、施設の利用者と職員は濃厚接触者に当たらないこと、(3)うわさは感情の尾ひれが付くので、法人の公式発表だけを事実と信じてもらいたいこと、を話しました。
そして、同じ内容を当日出勤していた職員一人一人に説明して回りました。
うわさを振りまいた病棟のヴェテラン看護職員の元を訪ねると、当初は「本当のことをいって何が悪い?」と開き直った態度でした。私は上記のことを説明し、患者の個人情報を漏らしたことへの医療人としての職業倫理の欠如を注意したところ、自らの軽率な言動を反省してくれました。
これでまずはひと安心と思っていたところ、またしても診療所の病棟からこんな問い合わせが私の元に舞い込んできました。
病棟では、いま、誰が感染したのか、職員間でさまざまな憶測が飛び交っている。どうか、感染者は誰なのか教えてほしいと。
背景には、見えないコロナへの恐怖から、自分たちに何かが隠されているのではないかという疑心暗鬼があるようでした。
私は説明のために病棟に再度、足を運びました。そして、こう諭しました。感染者の氏名を特定したところで何の意味があるのか! 濃厚接触者の特定は保健所が把握しているので、あなたたちは日々の感染防止に勤しんでいればいい!
日頃は情に厚い、ごくごく普通の職員たちから、望んで感染したわけではないスタッフの人権を無視し排除しようとする、このような差別的態度が噴出してきたことが私にはショックでした。
そして、いずれ職場復帰してくる彼女が誹謗・中傷にさらされるのではなく、今まで通り仕事ができる職場環境を整えておくこともまた、自分の使命であると、この時、心に誓ったのでした。
(続く)
令和2年1月12日(日)、こまき市民文化財団の主催による、小牧市公民館講堂で開かれた『〈夢みるシネマ〉こまきの劇場文化・映画文化』のトークにゲストとして出演しました。
前半は、かつて小牧にあった2つの劇場のうち、カムカム劇場を経営していた坂(ばん)徳弘氏の未亡人である田鶴子さんらを中心に当時の劇場・映画文化を語り合うトーク・コーナー。
後半は、86年公開のカルト映画の傑作、林海象(はやしかいぞう)監督の『夢みるように眠りたい』を、林監督を招いて貴重な16ミリ・フィルムで上映するという企画です。
年末に文化財団の浅井さんからこの話をいただいた時、カムカム劇場と小牧劇場についてなら、61年生まれの私より年長の適任者がおられるのではないかとお話ししました。
しかし、映画『夢みるように眠りたい』を東京でリアルタイムに観ており、80年代のアングラ系サブ・カルチャーを語れるという点では適任なのかもと思い直し引き受けることにしました。
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小牧の2つの劇場は、終戦後、小牧の飛行場が進駐軍に接収された関係で、米兵たちの娯楽施設としても使われ洋画も上映されたそうです。
劇場周辺には歓楽街ができて、子どもが近寄ってはいけない「悪所」だったと聞きました。
トークでは、当時、米軍基地や米軍関係の仕事に就いており、現在は豊寿苑をご利用いただいている90代の方々から伺った貴重なエピソードを披露する予定でした。
ところが、トークが始まるや、86歳になられた坂さんは、当時の思い出が次々とよみがえってきて話が止まらなくなってしまい、私の時間はほとんど残されていませんでした。
進駐軍による小牧のモダン文化の痕跡について語りたかったのですが、客層の上限がせいぜい70代だったせいで、進駐軍が撤退した昭和33年(1958)以降の映画館にまつわる思い出話に終始してしまったことも思惑とはずれました。
もっとも、私が語る機会はこれからいくらでもあるでしょうから、喜んで大先輩方にお譲りしたのですが…。
後半の映画上映では、観客の一人として約35年ぶりに『夢みるように眠りたい』と対面でき感慨ひとしおでした。
つよく印象に残ったのは、映画製作に関わり出演もしていたミュージシャンあがた森魚さんがいかにも好みそうな、江戸川乱歩の探偵小説などを掲載した(ほぼ)戦前の雑誌『新青年』の、幻想怪奇色ただよう昭和モダニズム的な世界が浅草を舞台に絶妙に描かれていることでした。
アフタートークでは林海象監督から、27歳の時、唐十郎の劇団「状況劇場」出身で当時は無名だった佐野史郎を主役に抜擢して、モノクロ、16ミリ、大部分をサイレントで自主製作した実験色の濃いこの映画にまつわる数々の興味深いエピソードを聞くことができました。
80年代、東京で暮らす20代だった私は、毎週、雑誌『ぴあ』をチェックして、小劇場やライヴハウスでおこなわれるマイナーな映画、演劇、音楽、展覧会などに足繁く通っていました。
バブル時代というと、金に飽かしたきらびやかなブランド志向の側面ばかりが取りざたされますが、そうした金満主義的で薄っぺらな文化や風俗に吐き気がするほどの嫌悪感を持っていた若い人たちも一定層いて、彼らがアマチュアイズムやアナクロニズムを逆手にとってクールなセンスに昇華した、こうした映画を支持したのだと思います、個人的実感として。
同じ頃、新鋭のジム・ジャームッシュ監督が撮った低予算のモノクロ映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がヒットしたのも同じ理由からでしょう。
その後のうちあげでは、名古屋コーチンすき焼き鍋を囲んで、林監督とうち解けた会話をする機会が得られて、かけがえのない時間を過ごせました。
また、企画された浅井さんをはじめ、こまき市民文化財団の若い世代の人たちが、通俗的で土臭くなりすぎない、アートセンスにあふれた「小牧」の文化を創造していきたいという思いもよく伝わってきました。
道は険しいと思いますが、お手伝いできることでもあれば喜んで協力させてもらうつもりです。
2020.01.14 | カルチャー