毒と薬

『ミュージック・マガジン』5月号「クロス・レヴュー」で記事を書きました

『ミュージック・マガジン』2024年5月号

『ミュージック・マガジン』2024年5月号

わたしは2000年代初めから、今年創刊55周年を迎えたポピュラー音楽批評誌『ミュージック・マガジン』でワールド・ミュージックを中心に寄稿してきました。

しかし、ここ2年ぐらい、編集部が若返ったことで声が掛からなくなり、てっきり「卒業した」と思っていました。
そんなとき、ひさしぶりに編集部から2024年5月号での「クロス・レヴュー」依頼が来ました。

「クロス・レヴューとは、編集部がピックアップした話題の新譜7作について、4人の評者がそれぞれの専門をこえて短評と点数を付ける雑誌の名物コーナーです。

今回、割り当てられた7作は、ワールド・ミュージック、ジャズ、エレクトロ・ポップ、インディ・ロック、Jポップなど、多岐にわたり、ほとんどが初めて聴くアーティストやグループばかり。
自分からすすんで聴くタイプの音楽とは違うのでとても新鮮で素直に楽しめました。

音楽配信が主流になり、歴史的名盤からレア盤まで、膨大な量の音楽を手軽に聴けるようになったせいか、もしくは年のせいか、ここ数年、新録を聴きたいと願う気持ちが減退していました。
そういう意味で、「クロス・レヴュー」は、いい刺激になりました。

紙媒体にこだわってきた『ミュージック・マガジン』ですが、つい最近、「クロス・レヴュー」のみネットで閲覧できるようになりました。

「クロス・レヴュー」2024年4月号
https://note.com/mmrc1969/


ついでに、趣味の音楽とランニングを中心とした個人のブログも紹介させていただきます。
あわせてご高覧ください。

Running for Music – Music for Running
http://tpokjazz.blog.fc2.com

2024.04.18 | 音楽とアート

穂積久〜小牧が生んだ昭和モダン文化人』講演会

chirashi_web

このたび、小牧市文化協会から依頼で文化講演会『穂積久〜小牧が生んだ昭和モダン文化人』をおこなうことになりました。

小牧出身の穂積久(1903〜1989)は、戦後、盆踊りの定番「名古屋ばやし」「新小牧音頭」を作詞した民謡詩人として知られています。

しかし、大正末から昭和初期の青年期には、ロマン主義的な短歌、小説、戯曲、童話、映画評などに幅広く手がけたモダニストでした。

その後、当時、最先端を行っていた流行歌の作詞家に転身。戦前戦中、名古屋にあったツル/アサヒ・レコードを中心に、数多くの作詞を手がけました。

そんな久のことを、私は「小牧の西條八十(やそ)」と言っています。

今回の講演では、小牧や「昭和歌謡」といった狭い文脈ではなく、ワールド・ミュージックというか、カルチュラル・スタディーズの視点から穂積久に迫るつもりです。

単に教養を深めるだけではおもしろくないので、初期短編小説の朗読、渡辺はま子「小夜しぐれ」他、当時の貴重なSPレコードの解説と試聴、幻の童謡「つばめ」の実演、名曲「三味線軍歌」の芸妓風日本舞踊、小牧民謡協会による「名古屋ばやし」「新小牧音頭」などの民謡踊りなど、エンターテイメント的な要素も入った「ライヴ・パフォーマンス」です。

このことを通じて、小牧が生んだ文化人、穂積久の現代への再生を試みようと考えています。

それは、晩年の久を知っていて、久と同じ、小牧で生まれ、早稲田大学に学び、現在小牧で暮らす私に課せられた使命のように感じています。

小牧駅前に新しく建てるという図書館に、適度なポピュリズムを取り入れることには反対しませんが、それには穂積久を初めとする郷土が生んだ文化人が遺した書籍やレコードなどを「小牧の文化遺産」として、きちんと整備することが前提であると声を大にして言いたいです。

 

『小牧が生んだ昭和モダン文化人「作詞家 穂積久」』

講師 塚原立志(音楽ライター、文筆家)

日時 平成30年2月8日(木)午後1時30分開演

場所 まなび創造館あさひホール(ラピオ5階)

小牧市小牧3-555(名鉄小牧駅西徒歩3分)

主催 小牧市文化協会 後援 小牧市教育委員会

入場無料 当日先着300名

2018.01.25 | カルチャー歴史と文化音楽とアート

『ミュージック・マガジン』3月号でたくさん記事を書きました

MM-201703

2月20日発売の『ミュージック・マガジン』3月号の特集は水曜日のカンパネラです。

水曜日のカンパネラは、トラックメイカーのケンモチヒデフミのきらびやかなフューチャー・ハウスに乗せて、主演/歌唱のコムアイがキュートでひねりの効いた歌やラップを聞かせてくれるユニットです。

本号のアルバム・ピックアップで、私は2月に発売されたメジャー移籍後初のフル・アルバム『SUPERMAN』の紹介記事を書かせてもらいました。

また、同号では英国出身の鬼才、クァンティックこと、ウィル・ホランドが南米コロンビアのマリオ・ガレアーノと共同プロデュースした音楽プロジェクト、オンダトロピカの新作『バイレ・ブカネロ』の紹介記事も見開きで書いています。

さらに、前月号で紹介された話題のアルバムから7作をピックアップして4人の評者が論評する「クロス・レヴュー」にも書いています。

私の得意分野はアフリカや南米などのワールド・ミュージックなのですが、短期間で、これだけ多岐の分野にわたって書いたのは初めての経験でした。

最寄りの書店で、是非、お買い求めください。

2017.02.20 | 音楽とアート

ハワイ音楽は戦後日本人の憧れ〜帆巻ウクレレクラブ来苑


帆巻ウクレレクラブのみなさんとスタッフたち

帆巻ウクレレクラブのみなさんとスタッフたち

6月17日、梅雨の季節の暑い盛り、豊寿苑で「帆巻ウクレレクラブ」のみなさんによるコンサートがありました。

帆巻ウクレレクラブは、ペダル・スティール・ギターの長澤剛重さんをバンド・リーダーに地元で活動するハワイアン・バンドです。

バンド名の「帆巻(ほまき)」とは、尾張平野の内陸部にある小牧が、大昔、海に面していて、小牧山を目印に船の帆を巻いたことから「ほまき」、これが訛って「こまき」になったとの説にちなんだものだそうです。

たしかに、海洋性のハワイ音楽には、「小牧」よりも「帆巻」の方が似合っていますね。

ステージ中央でスティール・ギターを操る長澤さん

ステージ中央奥で座りながらスティール・ギターを操る長澤さん

じつはリーダーの長澤さん。小牧市在住の早稲田大学卒業生の集まりである「小牧稲門会」で私の大先輩であります。大柄で、背筋がピンと伸びていて、かくしゃくとされているのでとてもそうは見えないのですが、昭和31年ご卒業ですから80代になられているのではないでしょうか?

稲門会の懇親会の折、自己紹介で、学生時代から勉強はほどほどにハワイ音楽に没頭していたとのお話を聞いて、「この不良ぶりがいかにもワセダ!」と感心して、今回、ご出演をお願いした次第です。

長澤さんが大学生だった昭和30年前後は、灰田晴彦(有紀彦)とニュー・モアナバッキー白片(しらかた)とアロハ・ハワイアンズ大橋節夫とハニー・アイランダーズ和田弘とマヒナスターズなど、ハワイアン・バンドが次々と結成されてハワイアンが大ブームでした。

ギターのネックの部分を水平の台に乗せ、スライド奏法で琴のように「ピョワ〜ン」と弾くペダル・スティール・ギターはハワイアンの花形楽器。だから、日本のハワイアンをリードしてきたバンド・リーダーたちは、たいがいスティール・ギター奏者でした。ロック少年がエレキ・ギターにあこがれるように、長澤さんはスがティール・ギターを弾きたかった気持ちがとてもわかります。

コンサートは「アロハッ」でスタート

コンサートは「アロハッ」のポーズでスタート

前置きが長くなりました。

当日のメンバーは12人。ステージ後方には、長澤さんのスティール・ギターを中心に、左右をアクースティック・ギター1、エレキ・ベース1、ウクレレ4の男性陣。ステージ正面はヴォーカル、ダンス、ウクレレ演奏を兼ねる女性陣。

総勢12人からなる帆巻ウクレレ・クラブのみなさん

総勢12人からなる帆巻ウクレレ・クラブのみなさん

開演前に長澤さんからお示しいただいた演奏曲は、アンコール予定曲を含むと、「な、なんと!」全13曲。歌と演奏だけでなく、フラ・ダンスあり、健康体操タイムありと、盛りだくさんのメニューだったので、60分はかかるとみて、前倒しでスタートしました。

ステージは、スティール・ギターとウクレレでエキゾチックに生まれ変わった「四季の歌」で幕を開け、続くフラのスタンダード「レイ・ナニ」では、たゆたうような音楽にのせてご婦人二人がフラ・ダンスを披露。会場は、一気に南国ムードに彩られました。そのあと「われは湖の子(うみのこ)さすらいの」の歌い出しで知られる「琵琶湖周航の歌」、ワイキキの有名なダイアモンド・ヘッドを歌った、エセル中田でヒットした「カイマナ・ヒラ」というように、日本の歌とハワイアンとがほぼ交互に演じられました。

フラ・ダンスのワン・ポイント・レッスンの模様

フラ・ダンスのワン・ポイント・レッスンの模様

豊寿苑のご利用者の多くは、演歌、民謡、童謡といった土臭く田舎っぽい音楽を好まれるのですが、今回の選曲は、アメリカナイズされ商業化されたハワイ音楽はいうに及ばず、日本の歌でも「知床旅情」「上を向いて歩こう」といった、どちらかというと洒脱で都会的な音楽だったのですが、驚いたことに、みなさん結構ノッていました。

フラは優雅なばかりではない、雄々しいダンスも披露。

フラは優雅なばかりではない、雄々しいダンスも披露。

帆巻の演じるハワイ音楽は、ワールド・ミュージックのライターである私にとっては、なじみ深いソル・ホオピイレナ・マシャードギャビー・パヒヌイソニー・チリングワースといったディープでコアな音楽ではなく、敗戦後、豊かなアメリカ文化への日本人のあこがれを反映した楽園音楽のように思えました。

そう、自分が若かった頃を思い出させるノスタルジーそのものなんです。

後半はスタッフも混じって大フラ大会で大いに盛り上がり!(”大”三つ)。

リハビリとしてのフラの可能性を垣間見せられました。

ご利用者もいっしょにフラを踊りました。

ご利用者もいっしょにフラを踊りました。

この日、個人的にいちばんうれしかったのは「南国の夜」でした。

この曲はバッキー白片とアロハ・ハワイアンズ和田弘とマヒナスターズなど、ほとんどのハワイアン・バンドがレパートリーにしている有名曲ですが、じつはハワイ音楽ではなく、原曲はメキシコの作曲家アグスティン・ララ「ベラクルスの夜」 Noche De Veracruz です。

ハワイ音楽の優雅さと、ラテン音楽の哀感が融合して、これを歌謡曲に仕立てたのがムード歌謡でした。ご承知のように、ハワイアンからスタートした和田弘とマヒナスターズはその第一人者になりました。

こちらはおなじみの優雅なフラ・ダンス

こちらはおなじみの優雅なフラ・ダンス

今回、帆巻ウクレレクラブのみなさんにお越しいただいて、ハワイアンがご利用者にとっても、若いスタッフたちにとっても、こんなに楽しんでもらえる音楽だったとはちょっとした発見でした。

帆巻ウクレレクラブのみなさんには、次回も是非ご出演をお願いしたいと思っています。

6月17日、梅雨の季節の暑い盛り、豊寿苑で「帆巻ウクレレクラブ」のみなさんによるコンサートがありました。
帆巻ウクレレクラブは、ペダル・スティール・ギターの長澤剛重さんをバンド・リーダーに地元で活動するハワイアン・バンドです。
バンド名の「帆巻(ほまき)」とは、尾張平野の内陸部にある小牧が、大昔、海に面していて、小牧山を目印に船の帆を巻いたことから「ほまき」、これが訛って「こまき」になったとの説にちなんだものだそうです。
たしかに、海洋性のハワイ音楽には、「小牧」よりも「帆巻」の方が似合っていますね。
じつはリーダーの長澤さん。小牧市在住の早稲田大学卒業生の集まりである「小牧稲門会」で私の大先輩であります。大柄で、背筋がピンと伸びていて、かくしゃくとされているのでとてもそうは見えないのですが、昭和31年ご卒業ですから80代になられているのではないでしょうか?
稲門会の懇親会の折、自己紹介で、学生時代から勉強はほどほどにハワイ音楽に没頭していたとのお話を聞いて、「この不良ぶりがいかにもワセダ!」と感心して、今回、ご出演をお願いした次第です。
長澤さんが大学生だった昭和30年前後は、灰田晴彦(有紀彦)とニュー・モアナ、バッキー白片(しらかた)とアロハ・ハワイアンズ、大橋節夫とハニー・アイランダーズ、和田弘とマヒナスターズなど、ハワイアン・バンドが次々と結成されてハワイアンが大ブームでした。
ギターのネックの部分を水平の台に乗せ、スライド奏法で琴のように「ピョワ〜ン」と弾くペダル・スティール・ギターはハワイアンの花形楽器。だから、日本のハワイアンをリードしてきたバンド・リーダーたちは、たいがいスティール・ギター奏者でした。ロック少年がエレキ・ギターにあこがれるように、長澤さんはスがティール・ギターを弾きたかった気持ちがとてもわかります。
前置きが長くなりました。
当日のメンバーは12人。ステージ後方には、長澤さんのスティール・ギターを中心に、左右をアクースティック・ギター1、エレキ・ベース1、ウクレレ4の男性陣。ステージ正面はヴォーカル、ダンス、ウクレレ演奏を兼ねる女性陣。
開演前に長澤さんからお示しいただいた演奏曲は、アンコール予定曲を含むと、「な、なんと!」全13曲。歌と演奏だけでなく、フラ・ダンスあり、健康体操タイムありと、盛りだくさんのメニューだったので、60分はかかるとみて、前倒しでスタートしました。
ステージは、スティール・ギターとウクレレでエキゾチックに生まれ変わった「四季の歌」で幕を開け、続くフラのスタンダード「レイ・ナニ」では、たゆたうような音楽にのせてご婦人二人がフラ・ダンスを披露。会場は、一気に南国ムードに彩られました。そのあと「われは湖の子(うみのこ)さすらいの」の歌い出しで知られる「琵琶湖周航の歌」、ワイキキの有名なダイアモンド・ヘッドを歌った、エセル中田でヒットした「カイマナ・ヒラ」というように、日本の歌とハワイアンとがほぼ交互に演じられました。
豊寿苑のご利用者の多くは、演歌、民謡、童謡といった土臭く田舎っぽい音楽を好まれるのですが、今回の選曲は、アメリカナイズされ商業化されたハワイ音楽はいうに及ばず、日本の歌でも「知床旅情」や「上を向いて歩こう」といった、どちらかというと洒脱で都会的な音楽だったのですが、驚いたことに、みなさん結構ノッていました。
帆巻の演じるハワイ音楽は、ワールド・ミュージックのライターである私にとっては、なじみ深いソル・ホオピイ、レナ・マシャード、ガビー・パヒヌイ、ソニー・チリングワースといったディープでコアな音楽ではなく、敗戦後、豊かなアメリカ文化への日本人のあこがれを反映した楽園音楽のように思えました。
そう、自分が若かった頃を思い出させるノスタルジーそのものなんです。
後半はスタッフも混じって大フラ大会で大いに盛り上がり!(”大”三つ)。
リハビリとしてのフラの可能性を垣間見せられました。
この日、個人的にいちばんうれしかったのは「南国の夜」でした。
この曲はバッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、和田弘とマヒナスターズなど、ほとんどのハワイアン・バンドがレパートリーにしている有名曲ですが、じつはハワイ音楽ではなく、原曲はメキシコの作曲家アグスティン・ララの「ベラクルスの夜」です。
ハワイ音楽の優雅さと、ラテン音楽の哀感が融合して、これを歌謡曲に仕立てたのがムード歌謡でした。ご承知のように、ハワイアンからスタートした和田弘とマヒナスターズはその第一人者になりました。
今回、帆巻ウクレレクラブのみなさんにお越しいただいて、ハワイアンがご利用者にとっても、若いスタッフたちにとっても、こんなに楽しんでもらえる音楽だったとはちょっとした発見でした。
帆巻ウクレレクラブのみなさんには、次回も是非ご出演をお願いしたいと思っています。

2015.07.02 | 地域交流音楽とアート

認知症と音楽療法〜映画『パーソナル・ソング』を観て【2】

ルイ・アームストロング

ルイ・アームストロング


ところで、映画では、介護施設で認知症の高齢者をおとなしくさせるために向精神薬漬けにされている場面が映し出されます。薬の過剰投与は彼らの心の叫びを抑え込みますが解消されるわけではありません。そのうちに、彼らは心を閉ざして外の世界とのつながりを断ってしまいます。残念ながらこれは事実です。

それが、音楽の刺激によって記憶や感情がわき起こり、自分が取り戻せるというのですから、こんなにすばらしいことはないと思いました。

映画には、前出の曲のほかにも、たくさんの〝パーソナル・ソング〟が出てきます。わかっただけでもざっとこんな感じです。

サッチモことルイ・アームストロング「聖者の行進 (When The Saints Go Marching In) 」、40年代に大人気だった白人3姉妹のジャズ・コーラス、アンドリュース・シスターズ「オー・ジョニー (Oh Johnny, Oh Johnny, Oh!) 」、フォー・シーズンズのリード・ヴォーカルだったフランキー・ヴァリ「君の瞳に恋してる (Can’t Take My Eyes Off You ) 」、キュートな4人組の黒人女性コーラス・グループ、シュレルズが歌って大ヒットしたキャロル・キングの名作「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ ‘Will You Love Me Tomorrow’ 」ビーチ・ボーイズ「アイ・ゲット・アラウンド ‘I Get Round’ 」ベン・E・キング「スタンド・バイ・ミー ‘Stand By Me’ 」ビートルズ「抱きしめたい ‘I Wanna Hold Your Hand’ 」「ヘイ・ジュード ‘Hey Jude’ 」「ブラックバード ‘Blackbird’ 」など。

ベートーベンのようなクラシックもありましたが、メインは40〜60年代のヒット曲です。

このラインナップをみて気づいたのは、75歳以上の高齢者の世代むけと思われる〝パーソナル・ソング〟がサッチモ、キャブ、アンドリュースなど、意外と少ないことです。

アンドリュース・シスターズ

アンドリュース・シスターズ

シュレルズ

シュレルズ

豊寿苑の利用者の平均年齢であてはめると、ビング・クロスビーフランク・シナトラグレン・ミラー楽団あたりが出てきてもおかしくないはずですが、そうでないのは、コーエンの音楽療法が若年性アルツハイマーのようなもうすこし年齢の低い中高老年層を中心に試みられたからかもしれません。

左から、ボブ・ホープ、フランク・シナトラ、ビング・クロスビー

左から、ボブ・ホープ、フランク・シナトラ、ビング・クロスビー

もう1点、不思議だったのは、60年代(とくに前半)の曲が目立っていたのとは対照的に、ナット・キング・コールエルビス・プレスリーポール・アンカのような50年代を代表する歌手たちの曲もあまり使われていないことです。

躁うつ病のデニースはサルサで踊っていましたが、40年代末〜50年代に大流行したマンボチャチャチャも出てきません。ラテン音楽ファンとしては納得のいかないところです(笑)。
このあたりはダン・コーエンの好みの問題なんでしょうね。

映画を見終わって、私もダンのように豊寿苑のご利用者を対象に〝パーソナル・ソング〟を試みたくなりました。音楽の知識ではダンより上だと思っていますから…。

ただ、むずかしいと思うのは、「音楽には興味がない」と答える人が意外と多いのではないかということです。たとえ音楽鑑賞が趣味でなくても、心に残っている音楽はだれにでもあるはずです。しかし、本人は無自覚でしょうから、その曲を探り当てるとなるとたいへんな手間と時間が必要になるのではないでしょうか?

そこでありがちだと思うのは、本人がもっとも充実していた時代に流行っていたヒット曲をいくつかピックアップして、それらを聴いてもらい、その中からもっとも反応がよかったものを〝パーソナル・ソング〟に選ぶという手法です。これだとヘタしたら、たんなる「年代別懐かしのメロディ」になってしまいます。
福祉や介護の世界は、真面目だけれども感性がベタでイケてない人たちが多いので、こうなってしまわないかと私は懸念しています。

たとえば、私が認知症になったとします。

生活歴や家族の話から、音楽マニアで、とくにアフリカやラテンなどのワールド・ミュージックが好きだったという情報から、セネガルのユッスー・ンドゥールが90年に発表した「SET」が私の〝パーソナル・ソング〟ということにされたとしたらちょっと複雑な心境です。

ユッスー・ンドゥールの90年発売の名作『SET』

ユッスー・ンドゥールの90年発売の名作『SET』

たしかにユッスーの「SET」は大好きなので、私は相好を崩すのでしょうが、といって、これは私の〝パーソナル・ソング〟ではありません。

要するに、認知症の状態改善につながるのであれば、〝真実のパーソナル・ソング〟でなくても構わないという立場なのでしょうが、やっぱり納得できません。要するに、音楽にしろ、芸術全般はそれ自体が目的なのであって、手段ととらえた時点で、このような欺瞞は避けられない気がします。

私にはその人の〝パーソナル・ソング〟を勝手に決める権利はありません。だからこそ、〝パーソナル・ソング〟なのではありませんか?

13年11月のポール・マッカートニーの東京ドーム公演に行って確信しましたが、私のパーソナル・ソング〟はビートルズです。
認知症になったら、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ (A Day In The Life)」か、「愛こそすべて (All You Need Is Love) 」を聞かせてください。

(続く)

2014.12.18 | 音楽とアート

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