毒と薬

なんでも事務長のせい?〜松浦病院の不正受給に思う

当苑のすぐ近く、犬山市にある老舗の医療機関、松浦病院で、06年7月から昨年8月で約17億5千万円にのぼる診療報酬の不正受給が発覚し、近く指定医の取り消しがおこなわれることを新聞で知った(朝日新聞2013年10月10日朝刊)。

今回の報道で私が憤りを感じたのは、不正請求そのものに対してもそうだが、それ以上に「書類の届け出は事務長に任せきり」で自分は知らなかったと語ったという理事長の発言に対してである。「知らなかった」というのはおそらく事実だろう。だが、それは統一球変更問題での加藤コミッショナーとおなじで、組織の長としてあまりに無責任な態度ではないか。

医療法人の理事長は原則、医師または歯科医師でなければならない。そのため、医学的な知識はあっても経営者として財務や組織管理の知識に乏しい人たちも少なからずいる。そんな医者に限って、設備の決裁権や人事権といった面倒なことを事務長に丸投げしてしまい、事務長に権限が集中してしまうという話をよく耳にする。

ところが、そのような事務長でさえ、金融機関などからの借入の内容など、法人全体の財務状況を把握していない場合が多い。つまり、事務長とは、医療や介護の現場レベルでの権限を与えられ、職場環境の維持と現場の売り上げの最大化を課せられている一般の会社でいう部長級に近い。それならまだいいほうで、日用品や消耗品などの備品購入以外には決裁権が与えられていないチェーンストアの雇われ店長みたいな事務長さえいる。

かれらと接していて感じるのは、組織に対し驚くほど忠誠心が高いことである。そのおこないが社会道徳的に許されるかどうかはとりあえず棚上げにして、トップの意向に従って動くのが雇われ身分でしかない自分たちの宿めであるといわんばかりだ。そのことは一般企業にも当てはまるとしても、ポイントはトップから具体的な指示があるのではなく、トップの意向を汲んで動くということである。なんだか、二・二六事件で青年将校らが拠りどころにした「大御心」みたいだ。

理事長の多くは医業に時間をとられ経営に深く携わる余裕はない。ところが、その穴を埋めるはずの事務長は現場サイドでの目先の収益確保にとらわれてしまう。ここから抜け落ちているのは、大局に立った法人としてのビジョンや方針である。

今回発覚した17億5千万円もの不正受給は法人を売却したぐらいでは足りないとさえいわれている。松浦病院の実情はよく知らないが、法人としての生き残りを考えるのなら、多少の血は流れても、もっと早い段階で不正請求を撤回する経営的な決断が必要だったと思う。それは現場で直接指揮を執っている事務長の仕事ではない。暴走する機関車を止めることができるのは経営陣だけである。

経営陣にはたして経営することへの意思と自覚はあったのか? 自分たちのことをオーナーぐらいにしか思っていなかったのじゃないか? なんでもかんでも事務長のせいにするのは、いいかげんにやめてもらいたいものである。

2013.10.15 | 介護社会論

デイケア体操は組み合わせ∞(無限大)

舌の体操でペコちゃん顔のスタッフ

舌の体操でペコちゃん顔のスタッフ

当苑デイケア(通所リハビリ)では、専属の作業療法士(OT)と介護職員らが自分たちで考案したオリジナル体操をおこなっています。わたしはこれを勝手に「デイケア体操」と呼んでいます。
インストラクター役のスタッフは、車イスが多いご利用者に合わせて基本的にイスに座って進行します。まず首の運動から始まって、肩、胸、背中、腕、指、腰、脚、足先へと移っていきます。ひととおり身体を動かしたあとは「嚥下体操」と称して、顔の体操、舌の体操、発声練習をおこないます。ワンクール、時間にしておよそ30分。

ひとつひとつの動作は基本に忠実でオーソドックスなのですが、ムダがなく流れがいいのでやっていて飽きが来ません。これはお世辞や宣伝でいっているのではありません。たまたま自分が実際に体操に参加したときの実感から来ています。

わたしはどこに感心したかというと、インストラクターの個性によってストレッチの組み合わせや進行がちがっていることです。しかも同じインストラクターでも、その日のご利用者のタイプや状態に応じて内容を変えているのです。
「ラジオ体操第1」はたしかによく練られた体操だと思いますが、動作が体に染みこんでしまっているために、融通が利かず形式化して「お遊戯」になってしまう危険があります。その点、デイケア体操は絶えず変化し続けるのでヴァリエーションは無限なのです。

わたしは音楽ライターでもあるので、音楽にたとえるなら、譜面上の約束事はコード進行など最小限にしておいて、あとはプレイヤーがイマジネーションで即興演奏するモダン・ジャズのようなものだと思いました。
わたしはよほど忙しくないかぎり、午前10時半になると仕事を抜け出して毎日参加するようにしています。自分自身の健康のために。そのおかげでしょうか、体脂肪率12%BMI(肥満度)値「22」の理想的な健康体を維持できています。ご利用者の家族の方も機会があれば一度ご参加されてはどうでしょうか?

2012.02.23 | 介護社会論

〈J〉と〈日本〉〜介護士はJポップがお好き?

朝のひと言スピーチで、若手の男性介護スタッフが、浜崎あゆみを見に国立代々木競技場へ行ってきた話をしました。 スタッフがコンサートへ行ったという話題はときどきありますが、考えてみたら、海外のアーティストやグループだったという話は一度も聞いたことがありません。

若者たちの洋楽離れがいわれますが、この傾向が顕著になったのは、やはり世紀末の宇多田ヒカル、ヒッキーブームからではないでしょうか。「彼女の歌は欧米のポップスとくらべても遜色ない」と多くの日本人に思いこませた功績は大きいと思います。加えて、流しの娘だった藤圭子の娘で帰国子女だった点も重要です。
それは、敗戦以来、さらにいえばペリー来航以来、日本人が抱えていた欧米コンプレックスが解消されたことのあらわれでした。

世界とは西洋であり、洋楽とは欧米のポップスをさし、日本と西洋の二元論でしか世界観を持てなかった時代が終わり、西欧諸国とアジア諸国と日本とが等価なものととらえられるようになったグローバリゼーションの時代へ。その象徴がヒッキーであり、Jポップであると私は思います。

若者たちの洋楽離れとJポップ志向を、以前「介護士は心霊がお好き?(その3)」でもふれましたが、西洋との比較において浮き彫りになる〈日本〉への回帰ととらえてはなりません。それが結晶化されれば演歌になります。そうではなく、この場合、日本対西洋の二元論の解消からくる無国籍化としてのドメスティック現象とみるべきでしょう。これを、私は消費研究家の三浦展氏にならって〈J〉化と呼んでいます。

ところで、Jポップが、世界のポピュラー音楽のなかで、どの程度のレヴェルにあるかを問うのは愚問です。なぜなら、Jポップは〈ワールド・スタンダード〉からあえて目をそらし、日本と周辺の東アジア諸国のごく一部を〈世界〉ということにして、このフレームのなかで自己充足的に循環しているようにも映るからです。

私のスタンスはちがいます。
西洋と日本の二元論を解消して、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなど、世界中の音楽を同じ地平線上にいったん並べます。そこには価値の優劣はありません。そうしておいたなかから、たとえば〈日本〉なら〈日本〉を意識的/作為的につかみ出し、それと向き合います。そのためには、自分が属する文化や生活環境をも相対化し対象化しなければなりません。これこそ、私が考える「ワールド・ミュージック」の態度です。

〈J〉的なスタンスはこれとは対照的で、自分の生活実感からくる「あるがまま」の態度、むずかしくいうと〈主情主義〉的な態度です。

以前、ポルノグラフィティの「アゲハ蝶」を「森山加代子の『白い蝶のサンバ』(あなたに抱かれてわたしは蝶になる)にそっくりだね」と評したら、スタッフから「ちがいますよ、ロックですよ」と鼻息荒く反論されました。どうやら歌謡曲や演歌といっしょにされるのには抵抗があるみたいです。

歌謡曲や演歌に象徴されるそれまでの〈日本〉とのちがいをみせようと、欧米ポップス風の衣装を着てはみたものの、ボディは歌謡曲や演歌とあまり変わっていないというのがJポップの真実です。いってみれば、おにぎりや月見そばはイヤだが、かといってピクルスが苦手なので、ライス・バーガーや月見バーガーを注文するようなもの。

だから、Jポップ。またの名を〈よさこいソーラン〉。

〈J〉・・・そのど真ん中に身を置いていると、あまりのベタぶりにたじろぐこともしばしばですが、こういう人たちによって地域の介護、というより日本社会は支えられているという現実に思いを巡らすとき、自分の無力さを思い知らされます。

2010.10.22 | 介護社会論音楽とアート

肩もむオヤジと肩もませるオンナ

今年、新卒で入職した女性スタッフの話です。
入職したてのころは緊張で表情がこわばっていた彼女。それが、近ごろではご利用者やスタッフたちにすっかりとけ込んで、本来の明るい笑顔が戻っています。

そんな彼女が、リハビリのスタッフたち(おもに女性)からときおり肩をもんでもらっている光景を見かけるようになりました。彼女はデスクワークが中心なので、そのわきをリハビリのスタッフが出退勤時に通りかかるうちに親交を深めていったのでしょう。肩もみは親愛の証であり、なによりも双方の屈託のない笑顔がそのことを物語っています。

それで思い出したのが、パソコンに向かっている若いOLの背後にまわって「○○くん、ガンバッとるネェ」と肩をモミモミしていたセクハラ上司のことです。わたしが20、30代のころは、この手のオヤジがゾロゾロいました。COP10が地元・名古屋で開催されるいまでは、部下をムリヤリ飲みにさそい説教をたれる「飲みにケーション・オヤジ」とともに、絶滅危惧種となってしまいました。

肩をもむセクハラオヤジと、肩をもませる新人オンナ。共通するは愛情をあらわすコミュニケーションである点、ちがうのは一方的な好意か、双方の合意かという点です。
セクハラ上司の背後には、性差、年齢、役職などによる権力構造が横たわっています。これにくらべれば、後者は平等主義的で平和的です。

しかし、くりかえしますが、これは「比較すれば」の話です。じっさいは、年長のリハビリ・スタッフたちよりも新人の彼女のほうが「優位」に立っているように映ります。これは、サービスを提供する側とされる側との非対称的な関係がもたらす視覚イメージであるのはまちがいありません。

そうだとしても、この堂々としたもまれっぷりはなんなのだ?
それで思いあたったのが、母親や目上のサルが子ザルにおこなうグルーミング(毛づくろい)。霊長類はグルーミングによって、家族や群れの絆や序列を確認し補強しているといわれています。しかも、グルーミングには脳内快楽物質βエンドルフィンを放出し緊張緩和をもたらす効果があるといいます。

なるほど、あの堂々とした態度は、「親やまわりの大人たちが好きで面倒を見ているのだから」と平然としていられる子どもの無邪気さに近いのでしょう。

かわいいので、おネエさま方がつい面倒見たくなるのもわからなくはないものの、「勤務時間外に他人の目のないところでやってもらえ」とそっと忠告しておきました。

2010.10.13 | 介護社会論

「イラッとする」のことばの意味

先日、入職2年目の20代前半の女性介護スタッフが行事について相談と報告に来ました。快活で男まさりで、鉄火肌の彼女の口からたびたび発せられた「イラッとする」ということばがミョーに引っかかりました。

これはおそらく「イライラする」の意味なのでしょうが、それならば「ムカつく」という若者ことばがあるはずです。なのに、なぜ「イラッとする」なのか?

同世代の別のスタッフ(複数)に、わたしのこの疑問をぶつけてみました。
彼女たちの説明によると、「ムカつく」や「イライラする」には不快感の持続が認められるが、「イラッとする」では不快感はその瞬間にとどまる、ということがわかりました。

例の鉄火肌のむすめも、夜勤でナースコールが鳴るたびに、一瞬「イラッ」としても、そのような自分を抑えながらお年寄りに応対している、そんな様子が目に浮かぶようなことばだと思いました。

一瞬「イラッ」としても「イライラ」し続けない。介護には必要な心がけですね。

2010.10.04 | 介護社会論

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