小牧山城の石垣整備工事のため、ところどころ立入禁止だった山頂部の歴史資料館の外周がこのたび開放。ひさびさに小牧山に朝ランに出かけた。
自宅から山麓に広がる帯郭(おびくるわ)を抜けて、坂を上った桜馬場まで約2km。
ここから山頂まで約1kmを5往復、約10kmの坂道走。
ちょうど朝のラジオ体操に山頂をめざす人たちとかち合った。あいさつしながら駆け上がる。
頂上に来て、織田信長の築城時の石垣を再現したという、主郭(本丸)部分の生まれ変わった姿に心がふるえた。
小牧山城の主郭部分が3段の石垣に囲まれた壮大な「石の城」だったとわかったのは、2013年(平成25)のこと。
わたしは発掘調査現場が特別公開されるときは欠かさず見に行っている(もちろん走って)。このとき、わたしの意識は460年前にタイムトリップしている。
令和3年(2021)、織田信長時代の野面(のづら)積みの石垣をできるだけ忠実に復元する工事が始まった。
この復元プロジェクトがスタートしたとき、山下市長の発案で石垣の裏側に詰める裏込石に名まえやメッセージを書いて納める企画が始まった。
昨年度も大好評だったこの試み、じつはその第1回募集で、栄誉ある第1号になったのはわたしだ。
令和4年(2022)2月11日、午前6時47分にスタートして、大山川沿いを走って「市民四季の森」で折り返し小牧山に入った。
麓にある受付会場「れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)」にはすでに多くの人たちが並んでいたが、わたしはそこをスルーして頂上の受付会場まで一気に駆け上った。ジャスト20km。
ときあたかも、ロシアによるウクライナ侵攻が懸念されていた時期だったので、裏込石に豊寿苑と家族のしあわせとともに平和への願いを込めて「平安」と書いた。
残念ながら、約2週間後の2月24日、ロシアはウクライナに侵攻した。
小牧山はチャート(堆積岩)という硬くて風化しにくい赤っぽい岩石からできている。一部に混じる花崗岩は岩崎山から運ばれたといわれる。
信長は岩盤をそのまま生かしながら、足りない部分をおもに中腹の観音洞から切り出してきた岩石で補った。土で固めた土塁と堀が一般的だった当時にあっては画期的な「石の城」だった。
山頂までの道は、最近の改修工事によってほとんど舗装されてしまったが、かつては大雨のたびにデコボコになるオフロードだった。
けっしてラクではない勾配を駆け上がりながら、おそらく騎馬で上り下りしていたであろう若き日の信長に思いを馳せたものである。
訪れる人数でいうと、小牧山は名古屋城より多いそうだ。
これは観光目的ではなく、散歩のため、健康のため、毎日のように小牧山に足を運んでいる市民たちの数の多さを物語っている。
こんなにも市民から愛されている小牧山ってすばらしいと思う。
2024.04.16 | 歴史と文化
こまき市民文化財団から2年前に依頼を受け、新型コロナで延期されていた「ゆうゆう学級」の講座をおこなうことになりました。
この間、ロシアのウクライナ侵攻があったことから、たんなる郷土史ではなく昭和の戦争にテーマをしぼることにしました。
取材を進めるうちに、自分が知らなかった戦前戦中の小牧のすがたがよみがえってきました。
残念ながら、今回の講座は事前登録制のため、一般の方は受講できません。
以下、ご案内だけさせてもらいます
GM塚原立志
講座「写真が語る 昭和の小牧 戦争の時代をへて」
講師 塚原立志
内容
昭和2年(1927)の「陸軍特別大演習」から、戦時中の「陸軍幼年学校」開校、「陸軍小牧飛行場」建設、空襲、終戦まで、小牧と関係の深い出来事、戦争史跡、人物などを、当時の貴重な写真と新たに取材した写真、約120枚を見ながら、戦争について考えてみます。
日時 令和4年7月6日(水)午前9時30分〜11時30分
場所 小牧市公民館 4階 視聴覚室
2022.07.04 | 歴史と文化
このたび、小牧市文化協会から依頼で文化講演会『穂積久〜小牧が生んだ昭和モダン文化人』をおこなうことになりました。
小牧出身の穂積久(1903〜1989)は、戦後、盆踊りの定番「名古屋ばやし」や「新小牧音頭」を作詞した民謡詩人として知られています。
しかし、大正末から昭和初期の青年期には、ロマン主義的な短歌、小説、戯曲、童話、映画評などに幅広く手がけたモダニストでした。
その後、当時、最先端を行っていた流行歌の作詞家に転身。戦前戦中、名古屋にあったツル/アサヒ・レコードを中心に、数多くの作詞を手がけました。
そんな久のことを、私は「小牧の西條八十(やそ)」と言っています。
今回の講演では、小牧や「昭和歌謡」といった狭い文脈ではなく、ワールド・ミュージックというか、カルチュラル・スタディーズの視点から穂積久に迫るつもりです。
単に教養を深めるだけではおもしろくないので、初期短編小説の朗読、渡辺はま子の「小夜しぐれ」他、当時の貴重なSPレコードの解説と試聴、幻の童謡「つばめ」の実演、名曲「三味線軍歌」の芸妓風日本舞踊、小牧民謡協会による「名古屋ばやし」、「新小牧音頭」などの民謡踊りなど、エンターテイメント的な要素も入った「ライヴ・パフォーマンス」です。
このことを通じて、小牧が生んだ文化人、穂積久の現代への再生を試みようと考えています。
それは、晩年の久を知っていて、久と同じ、小牧で生まれ、早稲田大学に学び、現在小牧で暮らす私に課せられた使命のように感じています。
小牧駅前に新しく建てるという図書館に、適度なポピュリズムを取り入れることには反対しませんが、それには穂積久を初めとする郷土が生んだ文化人が遺した書籍やレコードなどを「小牧の文化遺産」として、きちんと整備することが前提であると声を大にして言いたいです。
『小牧が生んだ昭和モダン文化人「作詞家 穂積久」』
講師 塚原立志(音楽ライター、文筆家)
日時 平成30年2月8日(木)午後1時30分開演
場所 まなび創造館あさひホール(ラピオ5階)
小牧市小牧3-555(名鉄小牧駅西徒歩3分)
主催 小牧市文化協会 後援 小牧市教育委員会
入場無料 当日先着300名
3月14日、小牧市の市制60周年を記念して、郷土出版社から『保存版ふるさと小牧』という写真集が限定1500部で発売されました。
これは、昭和初期から現在までの小牧の歩みを、人びと、街並み、文化、風俗、自然、産業など、400枚以上の貴重な写真と解説を通してたどったものです。
価格は9,990円(税込)と安いとはいえませんが、古い小牧を知る人たちにはとても懐かしく、現在の小牧市しか知らない人たちには別世界を見るような驚きにあふれた、価値のある写真集だと思います。
監修は、地元小牧の郷土史の第一人者である入谷哲夫先生。
実は私、塚原立志も入谷先生から声を掛けていただき、この本でコラムを書かせてもらっています。
「塚原嘉一 菊と毛織物」というのがそれです。
おわかりと思いますが、塚原嘉一は私の祖父です。
嘉一は、大正6年(1917)、23歳の時に手織機一台で塚原毛織を起こし、昭和10年(1935)には従業員500人を抱えるまでになった実業家として知られています。
私が生まれた時、嘉一はすでにこの世の人ではありませんでした。
しかし祖母や家族、親戚の人たちから嘉一は単なる成り上がりの商売人ではなく、私財をなげうって小牧の町づくりに尽くしてきたこと、長く町会議員を務め、戦時中は町長にやったが、敗戦により公職追放されたことなどを聞かされていました。
しかし、いくら事業に成功したからといって、嘉一は、なぜ、あれほどまでに金銭と行動の両面において社会貢献活動に尽力したのか、単なる名誉欲のためととらえるのでは割り切れないものがありました。
今回のコラムのために、嘉一についての資料を当たっていてわかったのは、嘉一の強い社会貢献意識の奥には天皇陛下への尊崇の念があったということです。
嘉一が満33歳を迎えた昭和2年(1927)11月、尾張北部一帯で、天皇陛下をお迎えして陸軍特別大演習がおこなわれました。その折、花道真道流の師範でもあった嘉一は、現在の小牧高校がある御座所(天皇陛下の休憩室)に大輪白菊の生花を供することを命ぜられました。
この経験が嘉一の人生に大きな影響を与えました。
すなわち、国のため、社会のために尽くすことこそ、この身に余る名誉のご恩返しであると。
昭和9年(1934)に建てられ、現在は愛知県近代文化遺産に指定されている木造三階建ての自宅の3階は、私が子どもの頃は「入らずの場所」とされていました。常時、雨戸が閉まっていて真っ暗で埃っぽい和室二間が連なった薄気味悪い場所でした。
その和室は「菊ノ間」と「桐ノ間」といい、合わせて「光栄館」と嘉一が名づけていたことを今回、初めて知りました。私の親も知りませんでした。
私は今回、竣工直後に撮られた3階の写真を発見し『ふるさと小牧』で初公開しています。
これがその写真です。
では、くわしく解説していきます。
これは塚原邸3階の西側の十畳間「菊ノ間」の全景です。
床の間は南面し、向かって左には、神武天皇の肖像が描かれた掛け軸、隣には「天照皇大神」(てんしょうこうだいじん)つまり「あまてらすおおみかみ」と墨書された掛け軸が掛かっています。
床の間の手前には三方(さんぽう)が置かれ、わきには榊(さかき)が立てられています。
榊と御神酒を載せた三方のあいだ、掛け軸の手前に立てかけられた縦長の板は、たぶん御幣(ごへい)だと思います。
床脇(とこわき)には、黒っぽい布で覆われた台の上に御座所に生花を供した際に用いた花器が置かれています。その上の長押(なげし)にはご真影、後方に日本国旗が掲げられています。地袋(じぶくろ)の上に飾られているのは香炉(こうろ)でしょうか。
写真の左側の壁には「光栄館」と書かれた額書、その隣に御座所での生花の写真(下の図版)が額に入れて展示されています。
もうおわかりかと思いますが、「光栄館」は、天皇陛下に生花を供した「光栄」の記念館でした。
それ以上に、そこは天皇陛下を神としてお祀りした、いわば大きな神棚、あるいは私設神社だったのです。
以前、近代化遺産の調査に来られた名市大の先生から、3階には心柱が通っておらず望楼を載せた構造であること、風通しがよくなく生活の空間としては適していないことを指摘されました。
なるほど、人ではなく神が坐す空間だったから、そんな造りだったのですね。
戦時中、塚原毛織工場が軍需工場として徴せられることになった時、嘉一は全織機を進んで国に供出しました。嘉一にとってそれが本望だったのではないでしょうか?
一代で財を築いた嘉一は、金儲けをする自分に負い目を感じていたのだと思います。だから儲けた分を、世のため、人のために還元して恩返しをすることで自分を保っていた。しかし、社会とか、人とかではあまりに抽象的でイメージしづらいところがあります。だからこそ、国体を実体化した天皇陛下というフィルターが必要だったのだと思います。
2015.04.08 | 歴史と文化
特別に宗教を信じているわけではありませんが、神社仏閣や古くから伝わる信仰の地を訪ねるのが大好きな私にとって、人気の高い京都マラソンの抽選に当たったことは、まさに天佑神助(てんゆうしんじょ)でした(←宗教くさい言いまわし(笑))。
レースは午前9時、曇天で凍えるほどの寒さの西京極運動公園陸上競技場(正式名称だと長すぎるので一部省略)をスタート。桂川沿いを北上して、天龍寺や清涼寺のある嵐山では自動車専用道路を走りました。
嵯峨野から東へ向かい広沢池に出る手前、たぶん8kmぐらいの登り道で、なんと!iPS細胞の研究資金を募るためにエントリーされていた山中伸弥教授とすれ違いました。
約1mの至近距離で、日本が世界に誇る知性にお目にかかれるなんて、なんて私は果報者なんでしょう。
思わず「きょーじゅーっ!がんばりましょう!」と声を上げて手を振りました。すると、教授も笑顔で軽く手を振って応えていただきました。このことだけでも京都マラソンにエントリーした価値はじゅうぶんにあったと思います。
ちなみに、山中教授は3時間57分31秒で、初のサブ4を達成したそうです。スタート位置が前の方で優遇されていたとはいえ、それなりに練習していないとこの記録は出せません。
私はというと、公式には3時間49分14秒でした。スタートの号砲が鳴ってからではなく、私がスタートラインを越えてからゴールまでのタイムだと3時間45分38秒でした。
あまりの混雑のため、スタートラインにたどり着けず約5分間は歩いていました。このロス、なんとかならないものでしょうか?
さて、10kmを過ぎた頃、坂道を下った先に仁和寺の立派な二王門が現れます。その時、小雨が降っていたと記憶していますが、人びとの声援がものすごくて励みになりました。「4年前、高校入学前の長女と二人でここに来たなあ」と感慨に浸りながら脱力して駆け抜けました。
このあと、龍安寺、金閣寺がある北山を東に抜け大徳寺方面へと向かうきぬかけの路を走っていきます。私は龍安寺が大好きで、この路を何度も歩きました。だから、懐かしい思いでいっぱいでした。
余談ですが、アメリカの現代音楽の作曲家ジョン・ケージ(1912〜92)が83〜85年に書いた “Ryoanji” という曲があります。
私は、武満徹(1930〜96)が主宰していた「今日の音楽」’Music Today’ のケージ70歳記念コンサートでこの曲を初めて聴いたと思っていましたが、時期が合わないので、もしかしたらケージと交流が深かった現代舞踊のマース・カニンガム(1919〜2009)の公演で聴いたのかもしれません。
鈴木大拙(1870〜1966)に師事し禅に傾倒したケージだけあって、この音楽ほど龍安寺を見事に表現したものはないと思っています。龍安寺をモチーフにしたデイヴィッド・ホックニーのフォト・コラージュ作品もなかなかですが、これにはとうてい及びません。
15km付近の大徳寺あたりから北上すると、賀茂川にぶつかります。そのまま賀茂川沿いを北へ遡り、上賀茂神社あたりで折り返して川沿いを南下しました。
20km過ぎで再び東に折れて北山通を修学院方面に走って行きます。このあたりは折り返しの連続で方向感覚を見失い、25km過ぎで府立植物園の中に入ったときにはどっと疲労がこみ上げてきました。
その後、再び賀茂川の河川敷をひたすら南下します。このあたりまでくると失速したりリタイアするランナーがちょろちょろと出てきます。未舗装路の上、道幅が狭すぎるため、かわすのがたいへんで、とても走りづらかったです。
33km過ぎで、ようやく賀茂川河川敷のコースが終わり、左に折れて丸太橋通を京都御所を右手に見ながら走ります。そこをまた折り返して昭和初期のモダンな建築物京都市役所に向かいます。ここでちょうど35km。
私もすっかりへたばって、このまま走るのをやめたい気持ちでいっぱいでした。フルマラソンにつきものの「35kmの壁」というやつです。
それでも気力でがんばり続け、緩い上り坂を走りきって銀閣寺の手前で折り返した39km付近になってようやく最後のパワーがみなぎってきました。そして、京都大学のわきを駆け抜け平安神宮の赤い大きな鳥居があるゴールにやっとの思いでたどり着いたのです。
京都のコースは、想像していた以上に高低差があり、道幅も狭く、やたらと折り返しがあって走りづらかったというのが正直な感想です。でも、こんなに見どころが多いコースもほかにはないと思います。来年も抽選に当たれば是非走ってみたいと思います。