毒と薬

穂積久〜小牧が生んだ昭和モダン文化人』講演会

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このたび、小牧市文化協会から依頼で文化講演会『穂積久〜小牧が生んだ昭和モダン文化人』をおこなうことになりました。

小牧出身の穂積久(1903〜1989)は、戦後、盆踊りの定番「名古屋ばやし」「新小牧音頭」を作詞した民謡詩人として知られています。

しかし、大正末から昭和初期の青年期には、ロマン主義的な短歌、小説、戯曲、童話、映画評などに幅広く手がけたモダニストでした。

その後、当時、最先端を行っていた流行歌の作詞家に転身。戦前戦中、名古屋にあったツル/アサヒ・レコードを中心に、数多くの作詞を手がけました。

そんな久のことを、私は「小牧の西條八十(やそ)」と言っています。

今回の講演では、小牧や「昭和歌謡」といった狭い文脈ではなく、ワールド・ミュージックというか、カルチュラル・スタディーズの視点から穂積久に迫るつもりです。

単に教養を深めるだけではおもしろくないので、初期短編小説の朗読、渡辺はま子「小夜しぐれ」他、当時の貴重なSPレコードの解説と試聴、幻の童謡「つばめ」の実演、名曲「三味線軍歌」の芸妓風日本舞踊、小牧民謡協会による「名古屋ばやし」「新小牧音頭」などの民謡踊りなど、エンターテイメント的な要素も入った「ライヴ・パフォーマンス」です。

このことを通じて、小牧が生んだ文化人、穂積久の現代への再生を試みようと考えています。

それは、晩年の久を知っていて、久と同じ、小牧で生まれ、早稲田大学に学び、現在小牧で暮らす私に課せられた使命のように感じています。

小牧駅前に新しく建てるという図書館に、適度なポピュリズムを取り入れることには反対しませんが、それには穂積久を初めとする郷土が生んだ文化人が遺した書籍やレコードなどを「小牧の文化遺産」として、きちんと整備することが前提であると声を大にして言いたいです。

 

『小牧が生んだ昭和モダン文化人「作詞家 穂積久」』

講師 塚原立志(音楽ライター、文筆家)

日時 平成30年2月8日(木)午後1時30分開演

場所 まなび創造館あさひホール(ラピオ5階)

小牧市小牧3-555(名鉄小牧駅西徒歩3分)

主催 小牧市文化協会 後援 小牧市教育委員会

入場無料 当日先着300名

2018.01.25 | カルチャー歴史と文化音楽とアート

写真集『ふるさと小牧』発売!〜私も祖父・嘉一について執筆しました

『保存版ふるさと小牧』監修 入谷哲夫 郷土出版社(クリックで拡大)

『保存版ふるさと小牧』監修 入谷哲夫(郷土出版社)A4判(210×297)の豪華本です。(クリックで拡大)

3月14日、小牧市の市制60周年を記念して、郷土出版社から『保存版ふるさと小牧』という写真集が限定1500部で発売されました。

これは、昭和初期から現在までの小牧の歩みを、人びと、街並み、文化、風俗、自然、産業など、400枚以上の貴重な写真と解説を通してたどったものです。

価格は9,990円(税込)と安いとはいえませんが、古い小牧を知る人たちにはとても懐かしく、現在の小牧市しか知らない人たちには別世界を見るような驚きにあふれた、価値のある写真集だと思います。

かつての小牧駅。この駅から私も通学しました。(クリックで拡大)

かつての小牧駅。この駅から私も通学しました。(クリックで拡大)

監修は、地元小牧の郷土史の第一人者である入谷哲夫先生

実は私、塚原立志も入谷先生から声を掛けていただき、この本でコラムを書かせてもらっています。

「塚原嘉一 菊と毛織物」というのがそれです。

筆者が書かせてもらったコラム「塚原嘉一 菊と毛織物」。(クリックで拡大)

筆者が書かせてもらったコラム「塚原嘉一 菊と毛織物」。内容はこのホームページとは異なります。買って読んでみてください。

おわかりと思いますが、塚原嘉一は私の祖父です。

嘉一は、大正6年(1917)、23歳の時に手織機一台で塚原毛織を起こし、昭和10年(1935)には従業員500人を抱えるまでになった実業家として知られています。

塚原嘉一(昭和16年頃)

塚原嘉一(昭和16年頃)

私が生まれた時、嘉一はすでにこの世の人ではありませんでした。

しかし祖母や家族、親戚の人たちから嘉一は単なる成り上がりの商売人ではなく、私財をなげうって小牧の町づくりに尽くしてきたこと、長く町会議員を務め、戦時中は町長にやったが、敗戦により公職追放されたことなどを聞かされていました。

塚原毛織工場内部(昭和10年頃)(クリックで拡大)

塚原毛織工場内部(昭和10年頃)(クリックで拡大)

しかし、いくら事業に成功したからといって、嘉一は、なぜ、あれほどまでに金銭と行動の両面において社会貢献活動に尽力したのか、単なる名誉欲のためととらえるのでは割り切れないものがありました。

今回のコラムのために、嘉一についての資料を当たっていてわかったのは、嘉一の強い社会貢献意識の奥には天皇陛下への尊崇の念があったということです。

昭和10年頃の塚原毛織工場。画面中央に木造3階建ての嘉一邸。左の煙突付近が現在の豊寿苑正面玄関に当たる。左上には小牧山。(クリックで拡大)

昭和10年頃の塚原毛織工場。画面中央に木造3階建ての嘉一邸。左の煙突付近が現在の豊寿苑正面玄関に当たる。左上には小牧山。まわりは一面、田畑が広がっていたんですね。(クリックで拡大)

嘉一が満33歳を迎えた昭和2年(1927)11月、尾張北部一帯で、天皇陛下をお迎えして陸軍特別大演習がおこなわれました。その折、花道真道流の師範でもあった嘉一は、現在の小牧高校がある御座所(天皇陛下の休憩室)に大輪白菊の生花を供することを命ぜられました

この経験が嘉一の人生に大きな影響を与えました。

すなわち、国のため、社会のために尽くすことこそ、この身に余る名誉のご恩返しであると。

いまも残る塚原嘉一邸。3階が「光栄館」

いまも残る塚原嘉一邸。最上階が「光栄館」。(クリックで拡大)

昭和9年(1934)に建てられ、現在は愛知県近代文化遺産に指定されている木造三階建ての自宅の3階は、私が子どもの頃は「入らずの場所」とされていました。常時、雨戸が閉まっていて真っ暗で埃っぽい和室二間が連なった薄気味悪い場所でした。

その和室は「菊ノ間」「桐ノ間」といい、合わせて「光栄館」と嘉一が名づけていたことを今回、初めて知りました。私の親も知りませんでした。

私は今回、竣工直後に撮られた3階の写真を発見し『ふるさと小牧』で初公開しています。

これがその写真です。

塚原邸3階「光栄館」の竣工当時の写真(昭和10年頃)(クリックで拡大)

塚原邸3階「光栄館」の竣工当時の写真(昭和10年頃)(クリックで拡大)

では、くわしく解説していきます。

これは塚原邸3階の西側の十畳間「菊ノ間」の全景です。

床の間は南面し、向かって左には、神武天皇の肖像が描かれた掛け軸、隣には「天照皇大神」(てんしょうこうだいじん)つまり「あまてらすおおみかみ」と墨書された掛け軸が掛かっています。

床の間の手前には三方(さんぽう)が置かれ、わきには榊(さかき)が立てられています。

榊と御神酒を載せた三方のあいだ、掛け軸の手前に立てかけられた縦長の板は、たぶん御幣(ごへい)だと思います。

床脇(とこわき)には、黒っぽい布で覆われた台の上に御座所に生花を供した際に用いた花器が置かれています。その上の長押(なげし)にはご真影、後方に日本国旗が掲げられています。地袋(じぶくろ)の上に飾られているのは香炉(こうろ)でしょうか。

写真の左側の壁には「光栄館」と書かれた額書、その隣に御座所での生花の写真(下の図版)が額に入れて展示されています。

「光栄館」に展示されていた御座所と大輪白菊の生花の写真(昭和2年)。(クリックで拡大)

「光栄館」に展示されていた御座所と大輪白菊の生花の写真(昭和2年)。(クリックで拡大)

もうおわかりかと思いますが、「光栄館」は、天皇陛下に生花を供した「光栄」の記念館でした。

それ以上に、そこは天皇陛下を神としてお祀りした、いわば大きな神棚、あるいは私設神社だったのです。

以前、近代化遺産の調査に来られた名市大の先生から、3階には心柱が通っておらず望楼を載せた構造であること、風通しがよくなく生活の空間としては適していないことを指摘されました。

なるほど、人ではなく神が坐す空間だったから、そんな造りだったのですね。

『ふるさと小牧』に載っていた昭和31年に西から撮影された塚原毛織工場。長く小牧のシンボルだった煙突、その先に嘉一邸が見える。塚原家にはない貴重な写真でした。(クリックで拡大)

昭和31年に撮影された塚原毛織(この時代は小牧紡織)。長く小牧のシンボルだった煙突、その先に嘉一邸が見える。撮影場所はいまの名鉄小牧ホテルあたりでしょうか? 塚原家にはない貴重な写真で『ふるさと小牧』に載っていました。(クリックで拡大)

戦時中、塚原毛織工場が軍需工場として徴せられることになった時、嘉一は全織機を進んで国に供出しました。嘉一にとってそれが本望だったのではないでしょうか?

一代で財を築いた嘉一は、金儲けをする自分に負い目を感じていたのだと思います。だから儲けた分を、世のため、人のために還元して恩返しをすることで自分を保っていた。しかし、社会とか、人とかではあまりに抽象的でイメージしづらいところがあります。だからこそ、国体を実体化した天皇陛下というフィルターが必要だったのだと思います。

2015.04.08 | 歴史と文化

京都マラソン(2)〜走るノーベル賞科学者と遭遇!


古都京都ということで忍者を意識して黒装束で固めました。胸には「絆」のシール。

古都京都ということで忍者を意識して黒装束で固めました。胸には京都マラソンでもらった「絆」のワッペン。

特別に宗教を信じているわけではありませんが、神社仏閣や古くから伝わる信仰の地を訪ねるのが大好きな私にとって、人気の高い京都マラソンの抽選に当たったことは、まさに天佑神助(てんゆうしんじょ)でした(←宗教者かよ(笑))。
レースは午前9時、曇天で凍えるほどの寒さの西京極運動公園陸上競技場(正式名だと長すぎるので一部省略)をスタート。桂川沿いを北上して、天龍寺や清涼寺のある嵐山では自動車専用道路を走りました。
嵯峨野から東へ向かい広沢池に出る手前、たぶん8kmぐらいの登り道で、なんと!iPS細胞の研究資金を募るためにエントリーされていた山中伸弥教授とすれ違いました。
約1mの至近距離で、日本が世界に誇る知性にお目にかかれるなんて、なんて私は果報者なんでしょう。
思わず「きょーじゅーっ!がんばりましょう!」と声を上げて手を振りました。すると、教授も笑顔で軽く手を振って応えていただきました。このことだけでも京都マラソンにエントリーした価値はじゅうぶんにあったと思います。
ちなみに、山中教授は3時間57分31秒で、初のサブ4を達成したそうです。スタート位置が前の方で優遇されていたとはいえ、それなりに練習していないとこの記録は出せません。
私はというと、公式には3時間49分19秒でした。スタートの号砲が鳴ってからではなく、私がスタートラインを越えてからゴールまでのタイムだと3時間45分38秒でした。
あまりの混雑のため、スタートラインにたどり着けず約5分間は歩いていました。このロス、なんとかならないものでしょうか?
さて、10kmを過ぎた頃、坂道を下った先に仁和寺の立派な二王門が現れます。その時、小雨が降っていたと記憶していますが、人びとの声援がものすごくて励みになりました。「4年前、高校入学前の長女と二人でここに来たなあ」と感慨に浸りながら脱力して駆け抜けました。
このあと、龍安寺、金閣寺がある北山を東に抜け大徳寺方面へと向かう「きぬかけの路」を走っていきます。私は龍安寺が大好きで、この路を何度も歩きました。だから、懐かしい思いでいっぱいでした。
余談ですが、アメリカの現代音楽の作曲家ジョン・ケージ(1912〜92)が83〜85年に書いた “Ryoanji” という曲があります。
私は、武満徹(1930〜96)が主宰していた「今日の音楽」のケージ70歳記念コンサートでこの曲を初めて聴いたと思っていましたが、時期が合わないので、もしかしたらケージと交流が深かった現代舞踊のマース・カニンガム(1919〜2009)の公演で聴いたのかもしれません。
鈴木大拙(1870〜1966)に師事し禅に傾倒したケージだけあって、この音楽ほど龍安寺を見事に表現したものはないと思っています。龍安寺をモチーフにしたデイヴィッド・ホックニーのフォト・コラージュ作品もなかなかですが、これにはとうてい及びません。
15km付近の大徳寺あたりから北上すると、賀茂川にぶつかります。そのまま賀茂川沿いを北へ遡り、上賀茂神社あたりで折り返して川沿いを南下しました。
20km過ぎで再び東に折れて北山通を修学院方面に走って行きます。このあたりは折り返しの連続で方向感覚を見失い、25km過ぎで府立植物園の中に入ったときにはどっと疲労がこみ上げてきました。
その後、再び賀茂川の河川敷をひたすら南下します。このあたりまでくると失速したりリタイアするランナーがちょろちょろと出てきます。道幅が狭すぎるため、かれらをかわすのがたいへんで、とても走りづらかったです。
33km過ぎで、ようやく賀茂川河川敷のコースが終わり、左に折れて丸太橋通を京都御所を右手に見ながら走ります。そこをまた折り返して昭和初期のモダンな建築物、京都市役所に向かいます。ここでちょうど35km。
私もすっかりへたばって、このまま走るのを辞めたい気持ちでいっぱいでした。フルマラソンにつきものの「35kmの壁」というやつです。
それでも気力でがんばり続け、緩い上り坂を走りきって銀閣寺の手前で折り返した39km付近になってようやく最後のパワーがみなぎってきました。そして、京都大学のわきを駆け抜け平安神宮の赤い大きな鳥居があるゴールにやっとの思いでたどり着いたのです。
京都のコースは、想像していた以上に高低差があり、道幅も狭く、やたらと折り返しがあって走りづらかったというのが正直な感想です。でも、こんなに見どころが多いコースもほかにはないと思います。来年も抽選に当たれば是非走ってみたいと思います。

特別に宗教を信じているわけではありませんが、神社仏閣や古くから伝わる信仰の地を訪ねるのが大好きな私にとって、人気の高い京都マラソンの抽選に当たったことは、まさに天佑神助(てんゆうしんじょ)でした(←宗教くさい言いまわし(笑))。

前日のランナー受付後、南禅寺の有名な三門に上りました。(クリックで拡大)

前日のランナー受付後、南禅寺の有名な三門に上りました。(クリックで拡大)

レースは午前9時、曇天で凍えるほどの寒さの西京極運動公園陸上競技場(正式名称だと長すぎるので一部省略)をスタート。桂川沿いを北上して、天龍寺清涼寺のある嵐山では自動車専用道路を走りました。

南禅寺の三門の上から境内を臨む。ここが石川五右衛門が見た風景かと「絶景かな、絶景かな」。(クリックで拡大)

南禅寺の三門の上から境内を臨む。歌舞伎では、ここから石川五右衛門は「絶景かな、絶景かな」と言ったことになっている。(クリックで拡大)

嵯峨野から東へ向かい広沢池に出る手前、たぶん8kmぐらいの登り道で、なんと!iPS細胞の研究資金を募るためにエントリーされていた山中伸弥教授とすれ違いました。

約1mの至近距離で、日本が世界に誇る知性にお目にかかれるなんて、なんて私は果報者なんでしょう。

思わず「きょーじゅーっ!がんばりましょう!」と声を上げて手を振りました。すると、教授も笑顔で軽く手を振って応えていただきました。このことだけでも京都マラソンにエントリーした価値はじゅうぶんにあったと思います。

南禅寺の境内を通る琵琶湖疎水。モダンで枯れていてクール!(クリックで拡大)

南禅寺の境内を通る琵琶湖疎水。モダンで枯れていてクール!(クリックで拡大)

ちなみに、山中教授は3時間57分31秒で、初のサブ4を達成したそうです。スタート位置が前の方で優遇されていたとはいえ、それなりに練習していないとこの記録は出せません。

私はというと、公式には3時間49分14秒でした。スタートの号砲が鳴ってからではなく、私がスタートラインを越えてからゴールまでのタイムだと3時間45分38秒でした。

あまりの混雑のため、スタートラインにたどり着けず約5分間は歩いていました。このロス、なんとかならないものでしょうか?

4年前の春休み、長女と訪れた仁和寺の五重塔。

4年前の春休み、長女と訪れた仁和寺の五重塔。

さて、10kmを過ぎた頃、坂道を下った先に仁和寺の立派な二王門が現れます。その時、小雨が降っていたと記憶していますが、人びとの声援がものすごくて励みになりました。「4年前、高校入学前の長女と二人でここに来たなあ」と感慨に浸りながら脱力して駆け抜けました。

仁和寺二王門前の下り坂で脱力して忍者走り(ナンバ走り)をする。

仁和寺二王門前の下り坂で脱力して忍者走り(ナンバ走り)をする。

このあと、龍安寺金閣寺がある北山を東に抜け大徳寺方面へと向かうきぬかけの路を走っていきます。私は龍安寺が大好きで、この路を何度も歩きました。だから、懐かしい思いでいっぱいでした。

龍安寺の石庭を眺めていると時間と空間の感覚が麻痺してしまします。

龍安寺の石庭を眺めていると時間と空間の感覚が麻痺してしまいます。(クリックで拡大)

余談ですが、アメリカの現代音楽の作曲家ジョン・ケージ(1912〜92)が83〜85年に書いた “Ryoanji” という曲があります。

私は、武満徹(1930〜96)が主宰していた「今日の音楽」’Music Today’ のケージ70歳記念コンサートでこの曲を初めて聴いたと思っていましたが、時期が合わないので、もしかしたらケージと交流が深かった現代舞踊のマース・カニンガム(1919〜2009)の公演で聴いたのかもしれません。

龍安寺の土塀の寂びた味わいは平等院とは対照的な美しさ。(クリックで拡大)

龍安寺の土塀の寂びた味わいは平等院とは対照的な美しさ。(クリックで拡大)

鈴木大拙(1870〜1966)に師事し禅に傾倒したケージだけあって、この音楽ほど龍安寺を見事に表現したものはないと思っています。龍安寺をモチーフにしたデイヴィッド・ホックニーのフォト・コラージュ作品もなかなかですが、これにはとうてい及びません。

裏から眺めた土塀も味わい深い。美しすぎてため息しか出ない。

裏から眺めた土塀も味わい深い。美しすぎてため息しか出ない。(クリックで拡大)

15km付近の大徳寺あたりから北上すると、賀茂川にぶつかります。そのまま賀茂川沿いを北へ遡り、上賀茂神社あたりで折り返して川沿いを南下しました。

20km過ぎで再び東に折れて北山通を修学院方面に走って行きます。このあたりは折り返しの連続で方向感覚を見失い、25km過ぎで府立植物園の中に入ったときにはどっと疲労がこみ上げてきました。

賀茂川沿いをひた走る。後方には失速者の姿。このあと、河川敷の狭い未舗装路へ。

賀茂川沿いをひた走る。後方には失速者の姿。このあと、河川敷の狭い未舗装路へ。

その後、再び賀茂川の河川敷をひたすら南下します。このあたりまでくると失速したりリタイアするランナーがちょろちょろと出てきます。未舗装路の上、道幅が狭すぎるため、かわすのがたいへんで、とても走りづらかったです。

33km過ぎで、ようやく賀茂川河川敷のコースが終わり、左に折れて丸太橋通を京都御所を右手に見ながら走ります。そこをまた折り返して昭和初期のモダンな建築物京都市役所に向かいます。ここでちょうど35km。

私もすっかりへたばって、このまま走るのをやめたい気持ちでいっぱいでした。フルマラソンにつきものの「35kmの壁」というやつです。

前日のランナー受付のついでに平安神宮に立ち寄る。あでやかな朱色。

前日のランナー受付のついでに平安神宮に立ち寄る。あでやかな朱色。

それでも気力でがんばり続け、緩い上り坂を走りきって銀閣寺の手前で折り返した39km付近になってようやく最後のパワーがみなぎってきました。そして、京都大学のわきを駆け抜け平安神宮の赤い大きな鳥居があるゴールにやっとの思いでたどり着いたのです。

やっとの思いでゴールイン。後方には平安神宮の応天門。(クリックで拡大)

やっとの思いでゴールイン。後方には平安神宮の応天門。(クリックで拡大)

京都のコースは、想像していた以上に高低差があり、道幅も狭く、やたらと折り返しがあって走りづらかったというのが正直な感想です。でも、こんなに見どころが多いコースもほかにはないと思います。来年も抽選に当たれば是非走ってみたいと思います。

ゴール後、京都市美術館前で着替えを済ませて記念撮影。

ゴール後、京都市美術館前で着替えを済ませて記念撮影。

2015.03.27 | マラソン歴史と文化

京都マラソン(1)〜前日、平等院で臨終を思う


あでやかによみがえった鳳凰堂。

阿字池に映った姿が美しい。(クリックで拡大)

前泊が必要なマラソン・レースにエントリーするときは、前日の早い時間に現地に入って史跡や名勝などを巡ることにしています。
昨年12月に走った奈良、そして今回の京都は歴史的な文化遺産の宝庫なので、時間はいくらあっても足りません。だから、あらかじめ巡る場所を絞っておく必要があります。今回は、平成26年9月30日に大規模な修理を終えたばかりの宇治平等院鳳凰堂を訪ねることにしました。
関白藤原頼通が極楽往生を願い、極楽浄土の宮殿をイメージして建てた鳳凰堂はあざやかな朱色となってよみがえり、正面の阿字池にもその優美な姿を映していました。見事なまでにシンメトリカル(左右対称)な構え、計算され尽くした配置、時が止まったような端正な佇まい、完璧な美しさとはこれをいうのだと思いました。
ただ、自然との調和の点で人為が強く出過ぎているため、飽きが来るのも早い気がしました。やはり美には乱調、破調がないと。
鳳凰堂の内部も拝観しました。
堂宇の内部には定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来像が端然と座していました。均整のとれた温和でふくよかな姿は、これまた完璧で隙がありません。
阿弥陀像の頭上には螺鈿が施された華麗な四角い天蓋が覆い、まわりの壁には宙を舞うように配された52体の雲中供養菩薩像、扉や壁一面にはかつては極彩色だったという阿弥陀来迎図が描かれ、「我が国仏教美術の最高峰」といった肩苦しい言い方よりも「おとぎの国」と呼ぶのがふさわしいように感じました。
臨終に際し、紫雲に乗った阿弥陀如来が菩薩や天人たちを大勢連れて極楽に連れて行ってくれるなんて、これ以上、理想的な最期はないだろうとつくづく思いました。「豊寿苑にも阿弥陀堂があったらなあ」と思った次第です。
このあと、平等院の宝物館、宇治川沿いにある国宝、氏神神社、曹洞宗の道元禅師が初めて開いた寺院、興聖寺などを見て宇治をあとにしました。

前泊が必要なマラソン・レースにエントリーするときは、前日の早い時間に現地に入って史跡や名勝などを巡ることにしています。

昨年12月に走った奈良、そして今回の京都は歴史的な文化遺産の宝庫なので、時間はいくらあっても足りません。だから、あらかじめ巡る場所を絞っておく必要があります。今回は、平成26年9月30日に大規模な修理を終えたばかりの宇治平等院鳳凰堂を訪ねることにしました。

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見事なまでの均整美にしばし呆然とする。(クリックで拡大)

関白藤原頼通極楽往生を願い、極楽浄土の宮殿をイメージして建てた鳳凰堂(正式には阿弥陀堂)は、あざやかな朱色に塗り替えられ屋根上の鳳凰も金ぴかになって、正面の阿字池にもその優美な姿を映していました。見事なまでにシンメトリカル(左右対称)な構え、計算され尽くした配置、時が止まったような端正な佇まい、完璧な美しさとはこれをいうのだと思いました

阿字池越しに右の翼廊側から見た鳳凰堂も美しい。

阿字池越しに右の翼廊側から見た鳳凰堂も美しい。(クリックで拡大)

ただ、自然との調和の点で人為が強く出過ぎているため、飽きが来るのも早い気がしました。やはり美には乱調、破調がないと

鳳凰堂翼廊をななめ後方から見る。中堂と。実は翼廊とはつながっていません。

鳳凰堂翼廊をななめ後方から見る。

鳳凰堂中堂の内部も拝観しました。

堂宇の内部には定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来像が端然と座していました。均整のとれた温和でふくよかな姿は、これまた完璧で隙がありません。

内部は撮影禁止だが、阿字池の正面から阿弥陀仏の顔が見える。

内部は撮影禁止だが、阿字池の正面から阿弥陀仏の顔が見える。(クリックで拡大)

阿弥陀像の頭上には螺鈿が施された華麗な四角い天蓋が覆い、まわりの壁には宙を舞うように配された52体の雲中供養菩薩像、扉や壁一面にはかつては極彩色だったという阿弥陀来迎図が描かれ、「我が国仏教美術の最高峰」といった肩苦しい言い方よりも「おとぎの国」と呼ぶのがふさわしいように感じました。

中道から翼廊を臨む。

中堂から翼廊を臨む。中堂と翼廊とは実はつながっていない。つまり両翼廊は装飾なのだ。

臨終に際し、紫雲に乗った阿弥陀如来が菩薩やさまざまな楽器を奏でる天人たちを大勢伴って極楽に連れて行ってくれるなんて、これ以上、理想的な最期はないだろうとつくづく思いました。「豊寿苑にも阿弥陀堂があったらなあ」と思った次第です。

中堂正面から石灯籠越しに阿字池を臨む。

中堂正面から石灯籠越しに阿字池を臨む。

このあと、平等院の宝物館、宇治川沿いにある世界文化遺産宇治上神社道元禅師が初めて開いた曹洞宗の禅寺興聖寺などを見て宇治をあとにしました。

宇治川の合戦で平家軍に敗れ平等院で自刃した源頼政の墓。佇まいがいい。

宇治川の合戦で平家軍に敗れ平等院で自刃した源頼政の墓。佇まいがいい。源範頼と共に、この武将にはむかしからシンパシーを感じていました。

(続く)

2015.03.26 | マラソン歴史と文化

豊寿苑 春の祭事「豊川稲荷祭」~ おいなりさんは深い!

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豊寿苑の敷地内にある豊川稲荷の祠(右下)とのぼり(クリックで拡大)

平成27年3月19日(木)、豊川稲荷祭をおこないました。

例年ならば旧暦2月の初午(はつうま)ですが、今年はその日が3月31日に当たっていたため、前倒しして、旧暦1月の三の午に当たる19日になりました。

現在、豊寿苑が建っている場所には以前、毛織物工場があって、豊川稲荷の祠はその時代からそこにありました。今年は運悪く雨降りだったことから、場所を変えて豊寿苑内の和室前でおこないました。

豊寿苑内での祈祷の様子。奥は未年を迎えたご利用者名で紅白の布を奉納。

豊寿苑内での祈祷の様子。奥は未年を迎えたご利用者名で紅白の布を奉納。

本山は愛知県豊川市の豊川稲荷です。鳥居はありますが京都の伏見稲荷のような神社ではなく曹洞宗の寺院です。正式には「円福山豊川閣妙厳寺」(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)というそうです。だから、お祭りには曹洞宗のお坊さんが来られてお経を唱えてご祈祷します。

曹洞宗のお坊様ですが勢いよく真言を唱えます。

曹洞宗のお坊様ですが、経文を勢いよく振りかざして真言を唱えます。

紅白ののぼりに書かれてあるように尼真天」をお祀りしています。これは「だきにしんてん」と読み、元はインドの民間信仰の下級女神で、平安時代に密教と共に入ってきました。

では、なぜ「ダキニ天」「狐」と結びついたのでしょうか。

この点について、私が東京で編集者をしていた頃、お世話になった名著『狸とその世界』で知られる元立正大学教授で、昨年お亡くなりになった中村禎里先生『狐の日本史』(日本エディタースクール 2001年)の中でこう推理しています。

中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』

中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』

ダキニは元来、人の死体を食らう鬼神でした。狐もまた、動物の死肉を食らい、しかもしばしば葬地に巣を作っていました。ここからダキニと狐のイメージが重なったのではないかと。

もっとも中村先生の分析はもっと複雑で錯綜しているのですが、ものすごく単純化していうとこういうことです。

当施設の掛け軸に描かれたダキニ天

当施設の掛け軸に描かれたダキニ天(クリックで拡大)

ところで、写真にあるようにダキニ天は、狐にまたがる女神として描かれています。これは、中村先生によると、農耕神としての狐信仰と習合したダキニ天像が水神として蛇信仰と結びついた弁財天の姿から導かれたためだといいます。

持ち物も弁財天を模倣して宝珠と剣を持つのが一般的だったようです(『狐の日本史』表紙参照)。ところが、当苑が所有する豊川稲荷のレプリカの掛け軸を見ると、左手は富と財宝をもたらすとされている宝珠ですが、剣に代わって右手は藁束を天秤棒に掛けて肩で担いでいます。商売繁盛、農耕豊穣神としてのイメージがますます強くなったということですね。ダキニ天も狐も表情が柔和で、恐ろしい鬼神のイメージはかけらも感じられません。

密教の法具、五鈷杵(ごこしょ)も使っていました。

密教の法具、五鈷杵(ごこしょ)も使っていました。

次に「狐」「稲荷」の結びつきについて考えます。

伏見稲荷大社に近い京都の稲荷山(232m)は、古くから農耕の神が坐す場所とされてきました。それが民間の農耕神としての狐信仰と重なったというわけです。しかも、稲荷山は、ダキニ天を奉じる東寺密教僧の修行の場だったようです。

こうして「稲荷」−「狐」−「ダキニ天」のトライアングルが完成しました。

祈祷のあと、各人が順にお参りしました。

祈祷のあと、各人が順にお参りしました。

それにしても、「狐憑き」といい、「おちょぼさん」の愛称で知られる岐阜の「千代保稲荷」にまつわる呪いのわら人形といい、狐には、いまだに暗くてネガティブなイメージがあります。これは中国から伝わった妖狐のイメージが流布したこと、ダキニ天法という、鎌倉時代以降、密教僧のおこなった加持祈祷が邪法とされていたことと関係があります。

タントリズムを思わせる愛の呪法とか、稲と雷神の関係とか、戦国武将と稲荷信仰とか、稲荷信仰にかんして書きたいことはまだたくさんありますが、長くなるのでこのあたりにしておきます。

私たちにとっては、身近な存在である「おいなりさん」ですが、調べれば調べるほど深い歴史と文化と信仰があぶり出されてきて興味は尽きません。

「祈る」ことは心を空(くう)にすることだと感じます。

「祈る」ことは心を空(くう)にすることだと感じます。

《参考文献》
・中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』(日本エディタースクール 2001年)

平成27年3月19日(木)、豊川稲荷祭をおこないました。
例年ならば旧暦2月の初午(はつうま)ですが、今年はその日が3月31日に当たっていたため、前倒しして、旧暦1月の三の午に当たる19日になりました。
現在、豊寿苑が建っている場所には以前、毛織物工場があって、豊川稲荷の祠はその時代からそこにありました。今年は運悪く雨降りだったことから、場所を変えて豊寿苑内の和室前でおこないました。
本山は愛知県豊川市の豊川稲荷です。鳥居はありますが京都の伏見稲荷のような神社ではなく曹洞宗の寺院です。正式には「円福山豊川閣妙厳寺」(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)というそうです。だから、お祭りには曹洞宗のお坊さんが来られてお経を唱えてご祈祷します。
紅白ののぼりに書かれてあるように「?枳尼真天」をお祀りしています。これは「だきにしんてん」と読み、元はインドの民間信仰の下級女神で、平安時代に密教と共に入ってきました。
では、なぜ「ダキニ天」が「狐」と結びついたのでしょうか。
この点について、私が東京で編集者をしていた頃、お世話になった名著『狸とその世界』で知られる元立正大学教授で、昨年お亡くなりになった中村禎里先生が『狐の日本史』の中でこう推理しています。
ダキニは元来、人の死体を食らう鬼神でした。狐もまた、動物の死肉を食らい、しかもしばしば葬地に巣を作っていた。ここからダキニと狐のイメージが重なったのではないかと。
もっとも中村先生の分析はもっと複雑で錯綜しているのですが、ものすごく単純化いうとこういうことです。
ところで、写真にあるようにダキニ天は、狐にまたがる女神として描かれています。これは、中村先生によると、農耕神としての狐信仰と習合したダキニ天像が水神として蛇信仰と結びついた弁財天の姿から導かれたためだといいます。
持ち物も弁財天を模倣して宝珠と剣を持つのが一般的だったようです。ところが、当苑が所有する豊川稲荷のレプリカの掛け軸を見ると、左手は富と財宝をもたらすとされている宝珠ですが、剣に代わって右手は藁束を天秤棒に掛けて肩で担いでいます。商売繁盛、農耕豊穣神としてのイメージがますます強くなったということですね。ダキニ天も狐も表情が柔和で、恐ろしい鬼神のイメージはかけらも感じられません。
次に「狐」と「稲荷」の結びつきについて考えます。
伏見稲荷大社に近い京都の稲荷山(232m)は、古くから農耕の神が坐す場所とされてきました。それが民間の農耕神としての狐信仰と重なったというわけです。しかも、稲荷山は、ダキニ天を奉じる東寺密教僧の修行の場だったようです。
こうして「稲荷」−「狐」−「ダキニ天」のトライアングルが完成しました。
それにしても、「狐憑き」といい、「おちょぼさん」の愛称で知られる岐阜の「千代保稲荷」にまつわる呪いのわら人形といい、狐には、いまだに暗くてネガティブなイメージがあります。これは中国から伝わった妖狐のイメージが流布したこと、ダキニ天法という、鎌倉時代以降、密教僧がおこなった加持祈祷が東寺から邪法と感じとられていたことと関係があります。
タントリズムを思わせる愛の呪法とか、稲荷信仰にかんして書きたいことはまだたくさんありますが、長くなるのでこのあたりにしておきます。
私たちにとっては、身近な存在である「おいなりさん」ですが、調べれば調べるほど興味があふれてきます。
参考文献
中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』(日本エディタースクール 2001年)

2015.03.25 | 歳時記歴史と文化

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