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Poison & Medicine ブログ 毒と薬

2025.8.15

歴史と文化

語り継ぐ『小牧と太平洋戦争』④

利用者で最後の出征経験者

今日は80年の節目を迎えた終戦日。

「ゆうゆう学級」第4章では、当施設デイケアの利用者で、令和3年(2021)に逝去された小牧出身の沖本秀男さん(1925〜2021)が残した手記とインタビューをもとに、その壮絶な戦争体験を朗読を中心に再構成しました。

題して「撃沈から奇跡的に生還した若き海軍兵の手記より」。

豊寿苑が開設された平成7年(1995)頃は、出征経験のある方や、満州・朝鮮半島から引き揚げてきた方が普通にいました。そして、事あるごとに当時の苦労話を聞かされものでした。

それが終戦から65年たった平成22年(2010)頃になると、出征経験者の数がめっきり少なくなったことに気づきました。

以来、80代以上の人たちと日常的に接する高齢者介護施設に勤め、歴史の知識がそれなりにあるわたしが、戦争体験者の話を直接聞き未来へ語り継ぐのは自分の使命と思うようになりました。

わずか3ヶ月の訓練で南太平洋へ

沖本さんは、旧制小牧中学(現小牧高校)在学中の昭和18年(1943)4月、海軍志願兵として学友たちとともに、広島県佐伯郡大竹町(現大竹市)にあった呉鎮守府管轄大竹海兵団に入団しました。満18歳でした。

同年7月、わずか3ヶ月の訓練を受けて、呉を出港し、約20日後、連合艦隊の拠点があった南太平洋のトラック諸島(現チューク諸島)に着きます。そこで重巡洋艦「鈴谷」に乗り組みます。

レイテ沖海戦で見た地獄の光景

沖本さんが入隊した時、大日本帝国は、すでに連合国によって太平洋上の重要拠点を次々と攻略され劣勢に立たされていました。

18年9月の御前会議で決まった、本土防衛と戦争継続のために確保すべき「絶対国防圏」を死守するために、沖本さんが乗った鈴谷は太平洋上の忙しく駆け巡りました。


昭和19年(1944)10月。
追い詰められた連合艦隊は、武蔵・大和を中心に乾坤一擲(けんこんいってき)、総動員でレイテ沖海戦に臨みました。

25日午前11時前、沖本さんが炊事場の清掃をしていたとき、米軍機の攻撃に遭い、至近弾がすぐそばの魚雷室に引火。火災が発生しました。

応急伝令員の沖本さんは、上官に報告するため、甲板への階段を大急ぎで駆け上りました。
が、そのとき、魚雷が次々と誘爆し爆風で上甲板が吹き飛ばされました。沖本さんが目にした光景は凄惨そのものでした。

手足がぶっちぎれ、ある者は顔半分しかなく、はらわたが飛び出した者など、多数で、軍医、衛生兵の手が回らず、包帯も不足してその者の衣服で傷口を縛る程度で、ただ「がんばれ」「しっかりせよ」と励ますことしかできかねる有り様でした。

「手記」より

(続く)

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