第1章 不安心理がもたらす残酷さ
当施設に勤務する看護職員が、同居していない母親を通じて新型コロナウイルスに感染していたようだ、との報告を相談室から受けたのは2020年12月8日、火曜夜のことでした。翌9日朝、PCR検査の結果が陽性と出て感染は確定的になりました。
その日の朝、私の元を高年の女性清掃職員が血相を変えて訪ねて来ました。
なんでも、今朝は隣にある系列診療所の当番だったので2階病棟を掃除していたところ、病棟の看護職員から「豊寿苑でコロナが出たから近づかない方がいいよ」といわれたそうです。
それは事実なのか? 知っていたなら、なぜ私たちに教えてくれなかったのか、という強い調子でした。
今回、感染が判明した看護職員の抗原検査とPCR検査は、前日の8日夜に系列診療所でおこなわれました。おそらく、病棟の看護職員はその場で結果がわかる抗原検査で陽性になったことをどこかから漏れ伝え聞いたのでしょう。そして、あろうことか、軽々しくも清掃職員に話してしまったのです。
抗原検査は精度が劣ることから職員たちへの説明はPCR検査の結果が出てからと考えていただけに、いきなり出端を挫かれました。
風評被害、パンデミックと同じく恐ろしいインフォデミックは、こうやって広がるものかと、戦慄しました。
件(くだん)の清掃職員には、(1)職員のコロナ感染を法人として認定したのはPCR検査の結果が出た今朝であること、(2)保健所による本人への行動調査の結果、施設の利用者と職員は濃厚接触者に当たらないこと、(3)うわさは感情の尾ひれが付くので、法人の公式発表だけを事実と信じてもらいたいこと、を話しました。
そして、同じ内容を当日出勤していた職員一人一人に説明して回りました。
うわさを振りまいた病棟のヴェテラン看護職員の元を訪ねると、当初は「本当のことをいって何が悪い?」と開き直った態度でした。私は上記のことを説明し、患者の個人情報を漏らしたことへの医療人としての職業倫理の欠如を注意したところ、自らの軽率な言動を反省してくれました。
これでまずはひと安心と思っていたところ、またしても診療所の病棟からこんな問い合わせが私の元に舞い込んできました。
病棟では、いま、誰が感染したのか、職員間でさまざまな憶測が飛び交っている。どうか、感染者は誰なのか教えてほしいと。
背景には、見えないコロナへの恐怖から、自分たちに何かが隠されているのではないかという疑心暗鬼があるようでした。
私は説明のために病棟に再度、足を運びました。そして、こう諭しました。感染者の氏名を特定したところで何の意味があるのか! 濃厚接触者の特定は保健所が把握しているので、あなたたちは日々の感染防止に勤しんでいればいい!
日頃は情に厚い、ごくごく普通の職員たちから、望んで感染したわけではないスタッフの人権を無視し排除しようとする、このような差別的態度が噴出してきたことが私にはショックでした。
そして、いずれ職場復帰してくる彼女が誹謗・中傷にさらされるのではなく、今まで通り仕事ができる職場環境を整えておくこともまた、自分の使命であると、この時、心に誓ったのでした。
(続く)
令和2年1月12日(日)、こまき市民文化財団の主催による、小牧市公民館講堂で開かれた『〈夢みるシネマ〉こまきの劇場文化・映画文化』のトークにゲストとして出演しました。
前半は、かつて小牧にあった2つの劇場のうち、カムカム劇場を経営していた坂(ばん)徳弘氏の未亡人である田鶴子さんらを中心に当時の劇場・映画文化を語り合うトーク・コーナー。
後半は、86年公開のカルト映画の傑作、林海象(はやしかいぞう)監督の『夢みるように眠りたい』を、林監督を招いて貴重な16ミリ・フィルムで上映するという企画です。
年末に文化財団の浅井さんからこの話をいただいた時、カムカム劇場と小牧劇場についてなら、61年生まれの私より年長の適任者がおられるのではないかとお話ししました。
しかし、映画『夢みるように眠りたい』を東京でリアルタイムに観ており、80年代のアングラ系サブ・カルチャーを語れるという点では適任なのかもと思い直し引き受けることにしました。
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小牧の2つの劇場は、終戦後、小牧の飛行場が進駐軍に接収された関係で、米兵たちの娯楽施設としても使われ洋画も上映されたそうです。
劇場周辺には歓楽街ができて、子どもが近寄ってはいけない「悪所」だったと聞きました。
トークでは、当時、米軍基地や米軍関係の仕事に就いており、現在は豊寿苑をご利用いただいている90代の方々から伺った貴重なエピソードを披露する予定でした。
ところが、トークが始まるや、86歳になられた坂さんは、当時の思い出が次々とよみがえってきて話が止まらなくなってしまい、私の時間はほとんど残されていませんでした。
進駐軍による小牧のモダン文化の痕跡について語りたかったのですが、客層の上限がせいぜい70代だったせいで、進駐軍が撤退した昭和33年(1958)以降の映画館にまつわる思い出話に終始してしまったことも思惑とはずれました。
もっとも、私が語る機会はこれからいくらでもあるでしょうから、喜んで大先輩方にお譲りしたのですが…。
後半の映画上映では、観客の一人として約35年ぶりに『夢みるように眠りたい』と対面でき感慨ひとしおでした。
つよく印象に残ったのは、映画製作に関わり出演もしていたミュージシャンあがた森魚さんがいかにも好みそうな、江戸川乱歩の探偵小説などを掲載した(ほぼ)戦前の雑誌『新青年』の、幻想怪奇色ただよう昭和モダニズム的な世界が浅草を舞台に絶妙に描かれていることでした。
アフタートークでは林海象監督から、27歳の時、唐十郎の劇団「状況劇場」出身で当時は無名だった佐野史郎を主役に抜擢して、モノクロ、16ミリ、大部分をサイレントで自主製作した実験色の濃いこの映画にまつわる数々の興味深いエピソードを聞くことができました。
80年代、東京で暮らす20代だった私は、毎週、雑誌『ぴあ』をチェックして、小劇場やライヴハウスでおこなわれるマイナーな映画、演劇、音楽、展覧会などに足繁く通っていました。
バブル時代というと、金に飽かしたきらびやかなブランド志向の側面ばかりが取りざたされますが、そうした金満主義的で薄っぺらな文化や風俗に吐き気がするほどの嫌悪感を持っていた若い人たちも一定層いて、彼らがアマチュアイズムやアナクロニズムを逆手にとってクールなセンスに昇華した、こうした映画を支持したのだと思います、個人的実感として。
同じ頃、新鋭のジム・ジャームッシュ監督が撮った低予算のモノクロ映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がヒットしたのも同じ理由からでしょう。
その後のうちあげでは、名古屋コーチンすき焼き鍋を囲んで、林監督とうち解けた会話をする機会が得られて、かけがえのない時間を過ごせました。
また、企画された浅井さんをはじめ、こまき市民文化財団の若い世代の人たちが、通俗的で土臭くなりすぎない、アートセンスにあふれた「小牧」の文化を創造していきたいという思いもよく伝わってきました。
道は険しいと思いますが、お手伝いできることでもあれば喜んで協力させてもらうつもりです。
2020.01.14 | カルチャー
10月〜11月、週1回、小牧市の愛知文教大学で非常勤講師をやっています。
テーマは「介護」に関するものはなく、『日本の伝統と文化』という講座の中の「日本舞踊の歴史と美学」です。
花柳流の師範である妹が大学から学生に実技指導を依頼されたのが縁で3年前から毎年この時期に実技とのセットで講義するようになりました。
「舞踊」という呼称は明治維新以降に生まれた名称で、元は「舞(まい)」と「踊(おどり)」とに類型化できます。前者は「能楽」、後者は「かぶき踊り」に代表されます。
「かぶき踊り」の流れを汲む「日本舞踊」は、明治末〜昭和初期、西洋の舞踊文化に影響された「新舞踊運動」の中で歌舞伎の舞台から独立したジャンルとして確立されました。
伝統舞踊といわれる「日本舞踊」ですが、じつはせいぜい100年程度の歴史なのです。
「伝統は創造される」は、何も日本舞踊に限った話ではありません。あの王朝絵巻のような即位の礼も明治以降に創られたのですから。
2019年11月10日 日曜日
2019.11.10 | カルチャー
増加する男性利用者
これまで、当苑のご利用者は女性が中心でした。しかし、ここに来て、とくにデイケアでは男性のご利用者が増えてきています。曜日によっては半数以上が男性というケースも出てきました。
デイサービスは「通所介護」といいますが、当苑がおこなっているデイケアは「通所リハビリテーション」といいます。男性利用者が増えたのは、おそらくリハビリ目的だからだと思います。
そのせいでしょうか、集団的なレクリエーションへの参加には消極的な男性利用者も少なくありません。
加えて、男性は総じて集団行動が苦手ということもあるでしょう。とりわけ、教養レベルが高い方には、より多くの人たちが参加してもらえることを前提とする福祉的なメニューは〝幼稚〟と映ってしまうのだと思います。
この問題をなんとかしたいと、昨年から始めたのが『週間ニュース解説』です。文字通り、1週間に起こった出来事を私が新聞記事からピックアップし解説していくコーナーです。
参加者の7、8割が男性
おもに扱うのは、政治、経済、国際、社会、文化、スポーツ。ワイドショー的な芸能ニュースはスタッフに任せているので、あまり取り上げません。
デイケアと入所の方々とに分けてそれぞれ週1回。デイケアは毎週木曜の午後1時30分、入所は毎週月曜の午前11時20分からおこなっています。参加者数はデイケアが毎回12〜15名ぐらい、入所は10名ぐらいでしょうか。参加者の7、8割は男性です。
事前に1週間分の新聞に目を通して、気になった記事にラインマーカーを施し、メモ紙に見出しをメモしておきます。
当日は参加者のみなさんの反応やご意見で臨機応変に話題を切り換えていくことから、行程表はなくこの1枚のメモ紙のみが頼りです。
デイケアは「ジジイ放談」?
デイケアに関しては、回を追うごとにファンが増えてきており、中には事前に新聞やテレビで予習してこられる方や、リハビリをそこそこで切り上げて参加してくださる方もおられ、こちらも真剣勝負です。
国内政治や世界情勢、ドラゴンズについて、みんながワイワイガヤガヤ、侃侃諤諤(かんかんがくがく)議論するサロンになってきたことをとてもうれしく感じています。
この楽しいひとときを、ブラックなユーモアを込めて「時事放談」ならぬ「ジジイ放談」と呼んでいます。
みなさんのご要望にお応えできるよう全力を尽くしますので、みなさんもドンドン頭を使って議論を交わしてください。
入所は世間の風を送るため
いっぽう、入所はこれとは雰囲気がまったく違います。全体の85%近くが要介護3以上。
参加者はその中では比較的介護度が低めなのですが、それでも、私の話にたいして発言される方はまれで、ほぼ無表情のまま、相づちを打たれることさえほとんどありません。
だから、話に興味を持っていただいているのか、そもそも話をわかっていらっしゃるのか、読み取れなくて「自己満足でやっているだけじゃないか?」と自己嫌悪に陥ることもしばしばです。
しかし、たとえご本人にはよく理解できなかったとしても、私が政局やら国際情勢やらについて語り続けるのは大事なことだと思っています。
というのも、施設での生活は平穏だけれども一般社会から隔てられた閉鎖的な環境なのです。だから、こうやって日々変わり続ける世間の風を送り届けているわけです。
こうやって毎週2回、『ニュース解説』のために事前に1週間分の新聞に目を通し本番を終えたときには身も心もクタクタになってしまって、そのあと、しばらく仕事が手に付きません。
「『ニュース解説』があるから木曜のデイケアを利用している」というありがたいお言葉を耳にするに付け、どんなに忙しくても手抜きは絶対しないと心に誓った次第です。
2018.05.19 | カルチャー
このたび、小牧市文化協会から依頼で文化講演会『穂積久〜小牧が生んだ昭和モダン文化人』をおこなうことになりました。
小牧出身の穂積久(1903〜1989)は、戦後、盆踊りの定番「名古屋ばやし」や「新小牧音頭」を作詞した民謡詩人として知られています。
しかし、大正末から昭和初期の青年期には、ロマン主義的な短歌、小説、戯曲、童話、映画評などに幅広く手がけたモダニストでした。
その後、当時、最先端を行っていた流行歌の作詞家に転身。戦前戦中、名古屋にあったツル/アサヒ・レコードを中心に、数多くの作詞を手がけました。
そんな久のことを、私は「小牧の西條八十(やそ)」と言っています。
今回の講演では、小牧や「昭和歌謡」といった狭い文脈ではなく、ワールド・ミュージックというか、カルチュラル・スタディーズの視点から穂積久に迫るつもりです。
単に教養を深めるだけではおもしろくないので、初期短編小説の朗読、渡辺はま子の「小夜しぐれ」他、当時の貴重なSPレコードの解説と試聴、幻の童謡「つばめ」の実演、名曲「三味線軍歌」の芸妓風日本舞踊、小牧民謡協会による「名古屋ばやし」、「新小牧音頭」などの民謡踊りなど、エンターテイメント的な要素も入った「ライヴ・パフォーマンス」です。
このことを通じて、小牧が生んだ文化人、穂積久の現代への再生を試みようと考えています。
それは、晩年の久を知っていて、久と同じ、小牧で生まれ、早稲田大学に学び、現在小牧で暮らす私に課せられた使命のように感じています。
小牧駅前に新しく建てるという図書館に、適度なポピュリズムを取り入れることには反対しませんが、それには穂積久を初めとする郷土が生んだ文化人が遺した書籍やレコードなどを「小牧の文化遺産」として、きちんと整備することが前提であると声を大にして言いたいです。
『小牧が生んだ昭和モダン文化人「作詞家 穂積久」』
講師 塚原立志(音楽ライター、文筆家)
日時 平成30年2月8日(木)午後1時30分開演
場所 まなび創造館あさひホール(ラピオ5階)
小牧市小牧3-555(名鉄小牧駅西徒歩3分)
主催 小牧市文化協会 後援 小牧市教育委員会
入場無料 当日先着300名