毒と薬

歴史あふれるランコース小牧山(第3回)

(写真1)信長の御殿跡といわれる麓の曲輪

(写真1)信長の御殿跡といわれる麓の曲輪

前回、解説した大手道は私のランニング・コースではない。小牧山での私のランニング・コースはいまのところ2つ。いずれのコースも自宅から西へ商店街を一直線に抜け、山麓の東から山を囲むように北へ帯状に広がる武家屋敷の曲輪(くるわ)跡に入る。曲輪とは、堀、土塁、石垣などで防御した平場のこと。
この帯曲輪の北東虎口(こぐち)から入って左、つまり南へ向かうと、土塁と堀で囲まれた一辺100mに及ぶ、ひときわ大きい曲輪のわきを通過する。山上の主郭が信長の私的な居住空間だったのに対し、こちらは信長の公的な御殿空間だったといわれている(写真1)。
帯曲輪を抜けて、市役所旧本庁舎東側の登山口に合流する。登った先に「桜の馬場」と呼ばれている信長時代に作られた広い曲輪跡がある。遊具が設けられ、桜のシーズンには大勢の花見客で賑わうこの場所を通り過ぎ、大手道を横切って西かららせん状に山頂まで続いているのが、こんにち「ランニング・コース」と呼ばれている昭和30〜40年代に整備された約1kmの道である。
緩やかな傾斜を西へ時計回りに登っていくと、「観音洞」(かんのんぼら)と呼ばれる広い曲輪が現れる(写真2)。その名の通り、間々観音(ままのかんのん)が顕現したと言い伝えられる場所である。
広場の奥のすこし小高くなっている場所にクスノキの立派な大木があることから、子どものころは「首吊り公園」と呼ばれる心霊スポットだった。
ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデは何らかの聖なるものが顕れることを「ヒエロファニー」と呼んだ。「観音洞」に観音様が顕れたり、心霊現象がおこるのは、その空間が他の空間とちがうと感じさせる「しるし」を伴うためだ。この場合、「しるし」とは、おそらくクスノキの大樹だろう。クスノキの存在がヒエロファニーをおこし、この場所をある種「聖域」に変えているのだろう。クスノキは、エリアーデ流にいうなら「宇宙木」というところだろう。
クスノキといえば、幼虫がその葉を主食とすることからこのあたりはアオスジアゲハが多く見られる。なんでもチョウが通る道「蝶道」でもあるようだ。またエノキもあることから、ときどきタマムシも見つけられるという。
ちなみに、小牧山城の主郭の石垣に使われているチャートはここから切り出されたものらしい。
観音洞を過ぎると西からS字曲線を描きながら北へ坂を登っていく。「五段坂」と呼ばれている搦め手口からの登山道とぶつかるすこし先に、柵で囲まれた太い幹の常緑樹が現れる。タブノキである。このあたりでは小牧山のみに自生していることから市の木に指定されている。これにあやかって豊寿苑オープンのとき、庭園にタブノキを植樹した。
タブノキは、クスノキ科に属し、気候が温暖な日本各地の、とくに海岸近くに多く、神社の鎮守の森でもよくみられる。こうしたことから、民俗学者で国文学者、歌人でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)は、タブノキは南方から漂着した日本人の祖先の記憶をとどめている聖なる木であると考えた。祖先たちはタブノキで作った船に乗って日本の海岸に漂着したからだという。この説にはあまり根拠が感じられないが、タブノキのようなクスノキ科の植物の強い芳香には、魔を退散させる効用があると信じられていたとはまちがいない。
このタブノキあたりが「ランニング・コース」の第1の難所とすると、第2の難所は北から東に回り込む頂上手前の坂道である。
ふだん私は胸に心拍数モニタを装着して走っている。私の年齢だと、これ以上高いと危険とされる心拍数はだいたい170。このコースを走るときは少なくとも3往復、だいたい5〜7往復にしているので目標心拍数を140〜155ぐらいにしている。ところが、上の2個所にさしかかると160を超えてしまうことも少なくない。後述する「五段坂」コースと比べれば、傾斜は緩やかとはいえ、それなりにはきつい。
早朝は山頂でのラジオ体操に登ってくる高齢の人たちでにぎわう。土日の朝は加えて犬を連れて登る人たちもよく見かける。ランナーも多いが混み合うことはまずない。おしゃれに着飾ったラン・ガールはあまり見たことがない。
(つづく)

前回、解説した大手道は私のランニング・コースではない。小牧山での私のランニング・コースはいまのところ2つ。いずれのコースも自宅から西へ商店街を一直線に抜け、山麓の東から山を囲むように北へ帯状に広がる武家屋敷の曲輪(くるわ)跡に入る。曲輪とは、堀、土塁、石垣などで防御した平場のこと。

この帯曲輪の北東虎口(こぐち)から入って左、つまり南へ向かうと、土塁と堀で囲まれた一辺100mに及ぶ、ひときわ大きい曲輪のわきを通過する。山上の主郭が信長の私的な居住空間だったのに対し、こちらは信長の公的な御殿空間だったといわれている(写真1)

帯曲輪を抜けて、市役所旧本庁舎東側の登山口に合流する。登った先に「桜の馬場」と呼ばれている信長時代に作られた広い曲輪跡がある。遊具が設けられ、桜のシーズンには大勢の花見客で賑わうこの場所を通り過ぎ、大手道を横切って西かららせん状に山頂まで続いているのが、こんにち「ランニング・コース」と呼ばれている昭和30〜40年代に整備された約1kmの道である。

緩やかな傾斜を西へ時計回りに登っていくと、「観音洞」(かんのんぼら)と呼ばれる広い曲輪が現れる(写真2)。その名の通り、間々観音(ままのかんのん)が顕現したと言い伝えられる場所である。

観音洞

観音洞

広場の奥のすこし小高くなっている場所にクスノキの立派な大木があることから、子どものころは「首吊り公園」と呼ばれる心霊スポットだった。

ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデは何らかの聖なるものが顕れることを「ヒエロファニー」と呼んだ。「観音洞」に観音様が顕れたり、心霊現象がおこるのは、その空間が他の空間とちがうと感じさせる「しるし」を伴うためだ。この場合、「しるし」とは、おそらくクスノキの大樹のこと。クスノキの存在がヒエロファニーをおこし、この場所をある種「聖域」に変えているのだろう。クスノキは、エリアーデ流にいうなら「宇宙木」というところか。

クスノキといえば、幼虫がその葉を主食とすることからこのあたりはアオスジアゲハが多く見られる。なんでもチョウが通る道「蝶道」でもあるようだ。またエノキもあることから、ときどきタマムシも見つけられるという。

ちなみに、小牧山城の主郭の石垣に使われているチャートはここから切り出されたものらしい。

観音洞を過ぎると西からS字曲線を描きながら北へ坂を登っていく。「五段坂」と呼ばれている搦め手口からの登山道とぶつかるすこし先に、柵で囲まれた太い幹の常緑樹が現れる。タブノキである。このあたりでは小牧山のみに自生していることから市の木に指定されている。これにあやかって豊寿苑オープンのとき、庭園にタブノキを植樹した。

タブノキは、クスノキ科に属し、気候が温暖な日本各地の、とくに海岸近くに多く、神社の鎮守の森でもよくみられる。こうしたことから、民俗学者で国文学者、歌人でもあった折口信夫(おりくちしのぶ)は、タブノキは南方から漂着した日本人の祖先の記憶をとどめている聖なる木であると考えた。祖先たちはタブノキで作った船に乗って日本の海岸に漂着したからだという。この説にはあまり根拠が感じられないが、タブノキのようなクスノキ科の植物の強い芳香には、魔を退散させる効用があると信じられていたことはまちがいない。

このタブノキあたりが「ランニング・コース」の第1の難所とすると、第2の難所は北から東に回り込む頂上手前の坂道である。

ふだん私は胸に心拍数モニタを装着して走っている。私の年齢だと、これ以上高いと危険とされる心拍数はだいたい170。このコースを走るときは少なくとも3往復、だいたい5〜7往復にしているので目標心拍数を140〜155ぐらいにしている。ところが、上の2個所にさしかかると160を超えてしまうことも少なくない。後述する「五段坂」コースと比べれば、傾斜は緩やかとはいえ、それなりにはきつい。

早朝は山頂でのラジオ体操に登ってくる高齢の人たちでにぎわう。土日の朝は加えて犬を連れて登る人たちもよく見かける。ランナーも多いが混み合うことはまずない。おしゃれに着飾ったラン・ガールはあまり見たことがない。

(つづく)

2013.08.18 | 歴史と文化

歴史あふれるランコース小牧山(第2回)

写真1 小牧山城大手道

(写真1)小牧山城大手道

小牧山の南麓に建つ市役所の旧本庁舎のすぐわきに小牧山城の大手道がある。横木の階段が一直線に続く別にどうってことのない登り道だ(写真1)。信長時代には現在より1.5mほど広い5.4m幅あり、道の両脇には土塁と塀が連なり家臣団の屋敷が並んでいたらしい。
道を150mほど登っていくと、まっすぐ行く道と右に曲がる道のT字路にぶつかる。右に曲がる道が信長時代の大手道である。道幅は狭くなり、これまたどうってことのないつづら折りのクネクネした道が続く(写真2)。
坂を上り詰めると、茶色いチャートの巨石がところどころに散らばった頂上付近に出る。このあたりから上が上下2段からなる総石垣づくりの主郭があったという場所だ。(写真3)は主郭に入る手前の斜面の石垣発掘調査の様子。2008年撮影。
千田嘉博『信長の城』によると、家臣の屋敷があった山麓から中腹まではあえて防御性の弱い直線道にし、信長がくらした中腹から上は防御にすぐれた屈曲道にしたのだという。そして、山腹から山頂の本丸にかけての中心部分を、幾重にも石垣をはりめぐらすことによって自らの権威と超越性を表現していたというのである(写真4)。
ランニングのとき、山頂部の西側の柵に私はいつも水分補給用のドリンクをぶら下げている。そこから下をのぞくと緑色のネットで長方形に囲われた中に小石が大量に積まれているのが見える。はじめは近年の発掘の時に取り除いた瓦礫を一個所に片づけたものと思っていた。
だが、前掲の千田嘉博『信長の城』を読んでいて、これらは石垣の表面に見えている大きな「面石(つらいし)」の背後で、水はけをよくするために詰めた「栗石(ぐりいし)」(裏込石)とわかった。栗石を使ったことといい、大きな石のすきまに「間詰石」(まづめ)でていねいに整形していることといい、小牧山城の石垣には当時最先端の技術が用いられているという。
それは「穴太積み」(あのうづみ)と呼ばれ、比叡山の麓にある滋賀県の坂本に住んでいた石工集団、穴太衆の技術である。ほかにも、清水寺の本堂のように、山の斜面に長い柱を立てて空中にせり出した建物を建てる「掛け造り」の技法が使われた可能性もあるという。このように信長は畿内からすぐれた技術者集団を招いて小牧山城を作ったと思われる。
※写真5はこのGWに比叡山へ行ったとき、坂本側の麓にある日吉大社で撮影したもの。穴太積みと掛け造りが確認できる。
(つづく)

小牧山の南麓に建つ市役所の旧本庁舎のすぐわきに小牧山城の大手道がある。横木の階段が一直線に続く別にどうってことのない登り道だ(写真1)。信長時代には現在より1.5mほど広い5.4m幅あり、道の両脇には土塁と塀が連なり家臣団の屋敷が並んでいたらしい。

この道を150mほど登っていくと、まっすぐ行く道と右に曲がる道のT字路にぶつかる。右に曲がる道が信長時代の大手道である(写真2)。登るにつれて道幅は狭くなり、どうってことのないつづら折りのクネクネした道が続く(写真3)

(写真2)一直線の大手道を右折

(写真2)一直線の大手道を右折

古井戸跡がある中腹の坂

(写真3)つづら折りの道が続く中腹の坂。

坂を上り詰めると、茶色いチャートの巨石がところどころに散らばった頂上付近に出る。このあたりから上が上下2段からなる総石垣づくりの主郭があったという場所だ。
(写真4)は主郭に入る手前の斜面の石垣発掘調査の様子。

(写真3)発掘調査の様子

(写真4)発掘調査の様子。2008年撮影。

千田嘉博『信長の城』によると、家臣の屋敷があった山麓から中腹まではあえて防御性の弱い直線道にし、信長がくらした中腹から上は防御にすぐれた屈曲道にしたのだという。そして、山腹から山頂の本丸にかけての中心部分を、幾重にも石垣をはりめぐらすことによって自らの権威と超越性を表現していたというのである(写真5)

(写真4)主郭をとりかこむ穴太積みの石垣

(写真5)主郭をとりかこむ穴太積みの石垣

ランニングのとき、山頂部の西側の柵に私はいつも水分補給用のドリンクをぶら下げている。そこから下をのぞくと緑色のネットで長方形に囲われた中に小石が大量に積まれているのが見える。はじめは近年の発掘の時に取り除いた瓦礫を一個所に片づけたものと思っていた。

だが、前掲の千田嘉博『信長の城』を読んでいて、これらは石垣の表面に見えている大きな「面石(つらいし)」の背後で、水はけをよくするために詰めた「栗石(ぐりいし)」(裏込石)とわかった。栗石を使ったことといい、大きな石のすきまに「間詰石」(まづめ)でていねいに整形していることといい、小牧山城の石垣には当時最先端の技術が用いられているという。

それは「穴太積み」(あのうづみ)と呼ばれ、比叡山の麓にある滋賀県の坂本に住んでいた石工集団、穴太衆の技術である。ほかにも、清水寺の本堂のように、山の斜面に長い柱を立てて空中にせり出した建物を建てる「掛け造り」の技法が使われた可能性もあるという。このように信長は畿内からすぐれた技術者集団を招いて小牧山城を作ったと思われる。

(写真6)は、このGWに比叡山へ行ったとき、坂本側の麓にある日吉大社で撮影したもの。穴太積みと掛け造りが確認できる。

(写真5)滋賀県、日吉大社の穴太積みと掛け造り

(写真6)滋賀県、日吉大社の穴太積みと掛け造り

(つづく)

2013.08.17 | 歴史と文化

歴史あふれるランコース小牧山(第1回)

自宅から商店街を通って西へ1.5kmぐらい先に小牧山がある。
今年は織田信長が小牧山に築城して450年の節目に当たるとして市はPRに力を入れている。今年の『豊寿苑夏祭り』のポスターにも市が作成した信長のイラストを許可を取って使わせてもらっている。
この、月代(さかやき)を剃らない総髪の茶筅髷(ちゃせんまげ)、南蛮胴風の漆黒具足にビロード仕立ての緋色のマントをまとったモダンな信長像は、黒澤明監督の『影武者』が作ったものだろう。小牧山時代の信長のイメージにそぐわないと気がするが、若いころ、傾き者(かぶきもの)といわれていた信長のこと、ありえなくもない。だからといって、EXILEみたいなヤンキー系が入った最近の信長のイメージ(元は反町隆史か?)はどうかと思う。
小牧山城はこれまで信長が斎藤氏の美濃を攻略するための足場とした仮の城のように考えられてきた。ところが、近年の発掘調査で、小牧山城は、当時としてはきわめてめずらしい総石垣づくりの主郭(本丸)と、麓には武家屋敷と町屋からなる本格的な城下町だったことがわかってきた。
小牧山は私のランニング・コースなので、発掘調査の進捗状況はよく目にしてきた。なんといっても驚くのは、現在、歴史館が建っている山頂周辺の変貌ぶりだ。かつては木々でおおわれていたが、信長時代の石垣が次々と出てきたことから現在は地表面がむき出しになっている(写真)。
ちなみに現在、小牧城といわれている歴史館は、昭和43年(1968)に名古屋の実業家から小牧市に寄贈された京都の飛雲閣を模した疑似天守閣。いまとなっては、現在の清洲城や墨俣城と称するチープな建造物と同じく、歴史的な遺構と景観を損なうものであり悲しい気分になる。
現在、歴史館の北西に建っている「御野立聖蹟石碑」と書かれた石碑(写真)は、昭和2年(1927)の陸軍特別大演習に視察に訪れた天皇陛下が休息されたのを記念したもの。
千田嘉博氏の『信長の城』(岩波新書)によると、この場所にのちに天守に発展していく櫓台があったことを推測させる上段の高さ4mにも及ぶひときわ高い石垣が築かれていたという。石碑の周囲に集められている巨石は、もともとは信長時代の石垣に使われているらしい。小学生のころ、写生で小牧山を訪れたとき、この石碑、というよりも石碑の下の大石を熱心に描いて変人扱いされたが、信長時代の貴重な石垣の石を描いていたのだ。
陸軍特別大演習は、明治31年(1898)から日中戦争が始まる前年の昭和11年(1936)まで、毎年11月、全国各地をまわっておこなわれていた。
昭和2年にこの地方で行われた大演習は、昭和天皇が天皇陛下になって最初の大演習で、即位礼と大嘗祭を兼ねた大礼の前年に当たる。それは地方視察も兼ねており「君民一体」の「国体」を目に見えるかたちで表現した絶好のイベントだった(原武史『昭和天皇』(岩波新書))。若き昭和天皇を明治天皇の再来とみなすカリスマ化のキャンペーンだったわけである。
こうしてカリスマ化されていく天皇像は昭和初期の超国家主義を育み、この思想に共感した青年将校が、二・二六事件において小牧出身の陸軍教育総監、渡辺錠太郎を「君側の奸」(くんそくのかん)として殺害するにいたる。
皮肉なことに、小牧山の麓には殉職した渡辺錠太郎陸軍大将の胸像が建てられた。現在は生家の菩提寺で、小牧山へ向かうランニング・コース沿いにある西林寺に移されている。ちなみに、渡辺大将の次女がノートルダム清心学園の理事長で修道女の渡辺和子さんである。
私の母方の実の祖父は軍人で、二・二六事件当時、八王子に駐屯していた。母によると、陸軍士官学校の同期だった青年将校から叛乱に加わるよう誘われたが、渡辺大将が保証人だったことから中立的態度で臨んだらしい。二・二六事件後は左遷され、台湾、朝鮮半島、満州、中国各地を転々とし、内地から沖縄戦に向かう海上で最期を遂げた。
(つづく)
小牧山城の段石垣跡

小牧山城の段石垣跡

自宅から商店街を通って西へ1.5kmぐらい先に小牧山がある。

今年は織田信長が小牧山に築城して450年の節目に当たるとして市はPRに力を入れている。今年の『豊寿苑夏祭り』のポスターにも市が作成した信長のイラストを許可を取って使わせてもらっている。

この、月代(さかやき)を剃らない総髪の茶筅髷(ちゃせんまげ)、南蛮胴風の漆黒具足にビロード仕立ての緋色のマントをまとったモダンな信長像は、黒澤明監督の『影武者』が作ったものだろう。小牧山時代の信長のイメージにそぐわない気がするが、若いころ、傾き者(かぶきもの)といわれていた信長のこと、ありえなくもない。だからといって、EXILEみたいなヤンキー系が入った最近の信長のイメージ(元は反町隆史か?)はどうかと思う。

小牧山城はこれまで信長が斎藤氏の美濃を攻略するための足場とした仮の城のように考えられてきた。ところが、近年の発掘調査で、小牧山城は、当時としてはきわめてめずらしい総石垣づくりの主郭(本丸)と、麓には武家屋敷と町屋からなる本格的な城下町だったことがわかってきた。

小牧山は私のランニング・コースなので、発掘調査の進捗状況はよく目にしてきた。なんといっても驚くのは、現在、歴史館が建っている山頂周辺の変貌ぶりだ。かつては木々でおおわれていたが、信長時代の石垣が次々と出てきたことから現在は地表面がむき出しになっている(写真)

ちなみに現在、小牧城といわれている歴史館は、昭和43年(1968)に名古屋の実業家から小牧市に寄贈された京都の飛雲閣を模した疑似天守閣。いまとなっては、現在の清洲城や墨俣城と称するチープな建造物と同じく、歴史的な遺構と景観を損なうものであり悲しい気分になる。

現在、歴史館の北西に建っている「御野立聖蹟」と書かれた石碑(写真)は、昭和2年(1927)の陸軍特別大演習に視察に訪れた天皇陛下が休息されたのを記念したもの。

千田嘉博『信長の城』(岩波新書)によると、この場所にのちに天守に発展していく櫓台があったことを推測させる上段の高さ4mにも及ぶひときわ高い石垣が築かれていたという。石碑の周囲に集められている巨石は、もともとは信長時代の石垣に使われているらしい。小学生のころ、写生で小牧山を訪れたとき、この石碑、というよりも石碑の下の大石を熱心に描いて変人扱いされたが、信長時代の貴重な石垣の石を描いていたのだ。

昭和天皇の巡幸を記念する石碑

昭和天皇の巡幸を記念する石碑

陸軍特別大演習は、明治31年(1898)から日中戦争が始まる前年の昭和11年(1936)まで、毎年11月、全国各地をまわっておこなわれていた。

昭和2年にこの地方で行われた大演習は、昭和天皇が天皇陛下になって最初の大演習で、即位礼と大嘗祭を兼ねた大礼の前年に当たる。それは地方視察も兼ねており「君民一体」の「国体」を目に見えるかたちで表現した絶好のイベントだった(原武史『昭和天皇』(岩波新書))。若き昭和天皇を明治天皇の再来とみなすカリスマ化のキャンペーンだったわけである。

こうしてカリスマ化されていく天皇像は昭和初期の超国家主義を育み、この思想に共感した青年将校が、二・二六事件において小牧出身の陸軍教育総監、渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)を「君側の奸」(くんそくのかん)として殺害するにいたる。

皮肉なことに、小牧山の麓には殉職した渡辺錠太郎陸軍大将の胸像が建てられた。現在は生家の菩提寺で、小牧山へ向かうランニング・コース沿いにある西林寺に移されている。ちなみに、渡辺大将の次女がノートルダム清心学園の理事長で修道女の渡辺和子さんである。

商店街を抜けた門前町にある浄土宗・西林寺

商店街を抜けた門前町にある浄土宗・西林寺

西林寺に安置されている渡辺大将銅像

西林寺に安置されている渡辺大将銅像

私の母方の実の祖父は軍人で、二・二六事件当時、八王子に駐屯していた。母によると、陸軍士官学校の同期だった青年将校から叛乱に加わるよう誘われたが、渡辺大将が保証人だったことから中立的態度で臨んだらしい。二・二六事件後は左遷され、台湾、朝鮮半島、満州、中国各地を転々とし、内地から沖縄戦に向かう海上で最期を遂げた。

(つづく)

2013.08.14 | 歴史と文化

音楽ライターとして

前にも書いたように、私は現在、『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』という月刊の音楽雑誌でワールド・ミュージックの紹介記事を書かせてもらっている。
『ミュージック・マガジン』は、音楽評論家の故・中村とうよう氏が1969年に創刊したロックやブラック・ミュージックなどを扱う日本初の本格的な音楽批評誌。その歯に着せぬ論調には高校時代から一目置いていた。毎号欠かさず購読するようになったのはワールド・ミュージックを積極的に取り上げるようになった80年代終わりからである。『マガジン』とか『MM』と略称されることがある。
『レコード・コレクターズ』は『ミュージック・マガジン』の別冊として82年に創刊。『ミュージック・マガジン』が新作中心に対してこちらはリイシュー(再発)盤の紹介が中心である。特集はビートルズ関連が多い。こちらは『レココレ』または『RC』と呼ばれる。
『MM』と『RC』は、いまも賛否含め、ポピュラー音楽批評の指標になっている。そんな権威ある音楽誌にほぼレギュラーで文章を書かせてもらっているとは名誉な話で、学生時代の自分だったら尊敬してしまうだろう。もっとも洋楽ファンが皆無といっていい豊寿苑でこの話をしても無反応だが‥‥。
きっかけは私が2003年に個人的に起ち上げたワールド・ミュージック批評サイト “Quindembo” が編集者の目にとまったことだった。だからもう、縁ができて7、8年になるだろうか。
私が専門とする「ワールド・ミュージック」というジャンルは、いわゆる世界の民族音楽や民謡ではなくて、世界各地のポピュラー・ミュージックの総称である。
たとえば、中央アフリカのコンゴ民主共和国で50、60年代に完成されたルンバ・コンゴレーズ。これは植民地時代から独立期にかけて、レコードやラジオを通じて、ヨーロッパから入ってきたポップスやジャズ、なかでもキューバ音楽に、伝統音楽の要素がかけ合わされて生まれた都市音楽である。
このようにポピュラー音楽は、その国や地域の人びとの文化や好みに応じて変化する。裏を返せば、ポピュラー音楽を聴けば、その地域や人びとの文化やライフスタイルが見えてくるというわけである。
ここは音楽を専門的に論じる場所ではないのでこれ以上は踏み込まない。興味のある方は私のHP”Quindembo”、または『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』を覗いてみてください。
で、何が言いたかったというと、医療・介護業界で、小牧という人口15万人の地方都市で、私はいつも多くの人びとに囲まれながらも、いいようのない疎外感を味わっている。『MM』と『RC』への寄稿は、自分が外の世界とつながっていると実感できる安心材料であり、かけがえのない自己承認の場なのである。
2013年8月号、ジンバブウェのガリカイ・ティリコティと、『ケニア・スペシャル』を書きました。

2013年8月号。ジンバブウェのガリカイ・ティリコティの新作と、『ケニア・スペシャル』の記事を書いています。

前にも書いたように、私は現在、『ミュージック・マガジン』『レコード・コレクターズ』という月刊の音楽雑誌でワールド・ミュージックの紹介記事を書かせてもらっている。

『ミュージック・マガジン』は、音楽評論家の故・中村とうよう氏が1969年に創刊したロックやブラック・ミュージックなどを扱う日本初の本格的な音楽批評誌。その歯に着せぬ論調には高校時代から一目置いていた。毎号欠かさず購読するようになったのはワールド・ミュージックを積極的に取り上げるようになった80年代終わりからである。『マガジン』とか『MM』と略称されることがある。

『レコード・コレクターズ』は『ミュージック・マガジン』の別冊として82年に創刊。『ミュージック・マガジン』が新作中心に対してこちらはリイシュー(再発)盤の紹介が中心である。特集はビートルズ関連が多い。こちらは『レココレ』または『RC』と呼ばれる。

『MM』と『RC』は、いまも賛否含め、ポピュラー音楽批評の指標になっている。そんな権威ある音楽誌にほぼレギュラーで文章を書かせてもらっているとは名誉な話で、学生時代の自分だったら尊敬してしまうだろう。もっとも洋楽ファンが皆無といっていい豊寿苑でこの話をしても無反応だが‥‥。

きっかけは私が2003年に個人的に起ち上げたワールド・ミュージック批評サイト “Quindembo” が編集者の目にとまったことだった。だからもう、縁ができて7、8年になるだろうか。

私が専門とする「ワールド・ミュージック」というジャンルは、いわゆる世界の民族音楽や民謡ではなくて、世界各地のポピュラー・ミュージックの総称である。 たとえば、中央アフリカのコンゴ民主共和国で50、60年代に完成されたルンバ・コンゴレーズ。これは植民地時代から独立期にかけて、レコードやラジオを通じて、ヨーロッパから入ってきたポップスやジャズ、なかでもキューバ音楽に、伝統音楽の要素がかけ合わされて生まれた都市音楽である。

このようにポピュラー音楽は、その国や地域の人びとの文化や好みに応じて変化する。裏を返せば、ポピュラー音楽を聴けば、その地域や人びとの文化やライフスタイルが見えてくるというわけである。

ここは音楽を専門的に論じる場所ではないのでこれ以上は踏み込まない。興味のある方は私のHP“Quindembo”、または『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』を覗いてみてください。

で、何が言いたかったというと、医療・介護業界で、小牧という人口15万人の地方都市で、私はいつも多くの人びとに囲まれながらも、いいようのない孤独感を味わっている。『MM』と『RC』への寄稿は、自分が外の世界とつながっていると実感できる安心材料であり、かけがえのない自己承認の場なのである。

2013.08.12 | 音楽とアート

GMの顔。音楽ライターの顔。ランナーの顔。

長良川幅600

「高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソン」から

県の実地指導(監査)の準備に大量の資料を作成したのがもとでひどい肩こりになった。このことをきっかけに本格的にランニングを始めた。

GMという立場は、仕事の量というより責任の重さである。約100名の従業員と(自分の家庭も含めた)家族の生活がこの肩にかかっているかと思うと、押しつぶされそうになる。ニーチェのいう「重力の魔」とはこのことかもしれない。だから、ほんのひととき、「重力の魔」から解放されようと、私は一人走る。

GMの仕事とは別に、ほぼ毎月、音楽雑誌の『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』にワールド・ミュージックの原稿を書く仕事もしている。原稿依頼を受けてから〆切まで1週間ないこともざらなので、編集部から送られてくるサンプル音源を自宅でじっくり聴いている余裕はない。かつては職場に持ち込んで仕事をしながら聴いていたが、いまはiPodに取り込んで、もっぱらランニングしながら聴くことにしている。

サンプルCDの収録時間は1枚でおよそ60分。これが2枚、3枚なんてこともある。 そんなことから、平日では60分、休日だと2時間以上のランニングをこなすのが習慣になった。距離にすると1回あたり10㎞から35kmぐらい。週3、4日は走っている。

時間帯はもっぱら早朝。朝4時半〜5時に目を覚まし6時頃からスタートする。
よく走るコースは豊寿苑がある市街地から東へ約1㎞の田園地帯を南北に流れる大山川か、市街地の西方に立つ小牧山のわきを南北に流れる合瀬川に沿った土手道。見晴らしのよい場所を走っているときに日の出に出くわしたりすると、清新な気持ちになる。

いまは真夏だから早朝でも日射しが強く、そのため木立におおわれた小牧山を山頂まで何度も往復することが多い。標高86mの小牧山の傾斜は持久力を付けるトレーニングにぴったりだ。

いまのところ、10月、名古屋アドベンチャー・マラソン(フル)、11月、いびがわマラソン(フル)、12月、お伊勢さんマラソン(ハーフ)へのエントリーが決まっている。
山野を駆け巡る行者ではないが、走ることは私にとって「重力の魔」を祓い身を清めるための儀式なのだ。

2013.08.09 |