わたしは双寿会のゼネラル・マネージャーの仕事のほかに、音楽ライターの仕事をしていることは前にもお話ししました。
洋楽にくわしい人ならばご存じかと思いますが、『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』という老舗のポピュラー音楽批評誌で、かれこれ10年ほど、ほぼ毎月書かせてもらっています。
わたしの担当は「ワールド・ミュージック」。
アフリカとラテン・アメリカのポピュラー・ミュージックが得意分野ですが、近ごろではアラブ、トルコ、ヨーロッパ、東南アジアなどのポピュラー・ミュージックについての依頼もちょくちょく受けています。
そんなわたしが、この6月発売の『ミュージック・マガジン』7月号で日本の庶民芸能について書かせてもらいました。 明治・大正・昭和と、日本の庶民芸能のメッカとして栄えてきた大歓楽街「浅草六区」にゆかりの芸人や歌手たちの貴重な録音を78回転SPレコードから復刻した2枚組CD『六区風景 想ひ出の浅草』(ぐらもくらぶ G10010/11)の紹介記事です。
録音年は明治末〜昭和30年ごろですが、全35トラック中30トラックが大正〜昭和ひとけた。今から80〜100年も前ですから、豊寿苑のご利用者でさえも子どもだったか、生まれる前の歴史的な録音集です。
2014.06.17 | 音楽とアート
『ほっとイブニング』は、NHK名古屋放送局制作で、毎週月〜金曜の午後6時10分〜7時00分、地元のニュースや話題を中心に伝える報道情報番組。
その週はシリーズで「介護」を特集していました。
深刻な介護人材不足に頭を悩ます施設の取り組みや、介護する側の心の負担など、夕方のローカル情報番組らしからぬ問題意識と掘り下げの深さに、つい画面を見入ってしまいました。それは、介護労働を「低賃金」「重労働」「将来性なし」の手垢にまみれたパブリック・イメージをくり返すにとどまる、次元の低い、高みに立った紋切り型の論調とはひと味もふた味もちがっていました。
NHKが取り上げたこうした問題は、重たい「現実」です。だから、少しでも多くの人びとに知ってもらう必要があります。といって、これらに対して絶望的な気持ちでいたところで何にもなりません。そんな中でも前を向いて、喜びや楽しみを見つけようという態度で臨むことが大切なのではないか。私が『ダンスフェス2013』を通じて訴えたかったのはそのことです。そんなわけで、番組のHPあてに『ダンスフェス2013』開催の告知させてもらったのでした。
ご案内したのは『ダンスフェス』がおこなわれる土曜日の週でしたので、ほんの3、4日前。時間的にみて、番組で取り上げてもらえるとは当初から考えていませんでした。「いま、なぜ、ダンス・リハビリなのか?」についてHPに書いた文章が、シリーズ「介護」の担当者の目にとまってくれたらいい。そんな程度でした。
それから2日ほどして、記事を読んで興味を持ってもらえたNHKの松岡さんという記者の方から電話があり、イベント当日、プライベートで見に来てもらえることになりました。
松岡さんは、電話口から想像していたとおり、気さくでさっぱりしていてウィットに富んだ笑顔が印象的な女性でした。イベント終了後に話し合って、2日後の月曜日、榎本先生のいつものレッスンに撮影クルーを連れて取材に来てもらえることに決まりました。
平成25年11月18日、取材班は記者の松岡さんを含む3人で現れました。驚いたのは、松岡さんはじめ、カメラ担当の方も、音声担当の方も全員が女性だったことです。松岡さんは「たまたま」といってましたが、ソフトで友好的なムードを作りながら、取材対象である榎本先生、私、お年寄りのみなさんの緊張感や警戒心をたくみに緩めて、すんなり中に入り込んでいくやり方は、女性ならではかもしれないと感心しました。2日前のイベントで取材してもらった中日新聞記者の方の、観察者的で、記者然とした一問一答的な取材態度とは好対照でした。
その様子は、その週の21日、木曜日の『ほっとイブニング』で放映されました。放送時間は思っていたより長く、3分はあったと思います。
放送では、介護サービスを受ける高齢者の中心が戦中・戦後世代になって、価値観が多様化し、介護施設でのレクリエーションが従来の〈高齢者=演歌・民謡〉の紋切り型だけでは通用しにくくなっていること。そこで、スポーツ・クラブに通う高齢者が増えていることに着眼して、リハビリの一つとしてダンス・エクササイズを取り入れた、という私の考えが紹介され、当施設でのレッスン風景が映し出されました。
画面からは、お年寄り、榎本先生、スタッフたちの表情や仕草に、よそ行きではない、きれいごとではない、いつもどおりの和気あいあいとしたムードがにじみ出ていて、とてもよかったと思います。私も彼ら、彼女らの、ああした笑顔を見るのがうれしくて、ブログで紹介し『ダンスフェス』をする気になったんだなあと、そのとき思いました。
ただひとつ、問題があったとすれば、裏方のつもりでいた私がクローズアップされていた点です。放送終了後、お礼かたがた、メールで松岡さんにそのわけをたずねてみると「塚原さんがおもしろかったから」だそうです。喜んでいいのか、反省すべきなのか、微妙なところです。
反省といえば、放送で「ビートルズ世代に向けた取り組み」とありましたが、あれは私の失言です。
ビートルズが日本公演をおこなった66年前後に青年期を迎えていた世代を「ビートルズ世代」と呼ぶことがあります。その世代の人たちもいまや70歳前後になり、今後、介護のリスクが高くなるのはまちがいありません。ですが、現時点では大多数はまだ元気です。
ダンス・エクササイズの中心世代は、彼らより10歳近く年長の、ちょうど55年頃に青年期を迎えた人たちです。だから「マンボ世代」と紹介されるべきだったと思います。
なぜ、私がこんな初歩的な失言をしてしまったかというと、取材の翌日、元ビートルズのポール・マッカートニーの東京ドーム公演に行く予定だったからです。そのため、頭の中がビートルズのことでいっぱいになっていて、ついつい口がすべってしまいました。この場所を借りてお詫びします。
そんなわけで、ここですこし話題を変えて、翌19日のポールの東京ドーム公演の話をしたいと思います。
ポール・マッカートニーは今年、71歳を迎えました。彼の年齢から考えて、最後の日本公演になるだろうと思った私は青春時代のメモリアル体験ぐらいの気持ちで、中味にはあまり期待せずコンサートに足を運びました。 だが、それはとんでもない誤解でした。
‘Yesterday’、‘Day Tripper’、‘Lady Madonna’、‘Obla Di Obla Da’、‘Hey Jude’、‘The Long And Winding Road’、‘Let It Be’ といったビートルズ時代のポールの代表曲から、最新ソロ・アルバム“NEW” 収録曲まで、全37曲を、ポールは、ベース、生ギター、エレキ・ギター、ピアノと次々と楽器を乗り替えながら、キーを下げることなく、アレンジも当時のままほとんど変えずに、約2時間45分を、ほぼ休憩なしにエネルギッシュに歌いこなしました。
ビートルズのナンバーでもっともワイルドでヘヴィな‘Helter Skelter’ をアンコールで見事にシャウトして歌ったり、名作『アビーロード』B面、怒濤のメドレーのラスト、その名も‘The End’ で、ジョン、ポール、ジョージで演じた三つどもえの激しいギター・バトルを再現してみたりと、とても71歳とは思えない現役感バリバリの姿に、最後は感動を通り越して放心状態になってしまいました。
ポール以外にビートルズのメンバーで存命中はリンゴ・スターで73歳。生きていれば、ジョン・レノンは73歳、ジョージ・ハリスンは70歳です。本人たちの年齢を基準にすれば「ビートルズ世代」は、あながちまちがっていないかも。
ところで、66年のビートルズ来日公演をきっかけに日本の若者文化は大きく変わったといわれています。ところが、全共闘運動を扱った大著『1968』(新曜社)で歴史社会学の小熊英二は、当時の青少年がこぞってビートルズ熱に犯されたというのは、後年に創られた「神話」であるといっています。
じつはビートルズのレコードが本格的に日本で売れるようになったのは、解散後の73年に発売された通称「赤盤」「青盤」と呼ばれている二組の2枚組ベスト盤以降なのだそうです。
私は13歳の時にポール・マッカートニーとウイングスが歌った映画『007死ぬのは奴らだ』の主題歌をきっかけにビートルズを知るようになりました。ビートルズにもっともはまっていたのは、ポール絶頂期の『バンド・オン・ザ・ラン』と、続く『ヴィーナス・アンド・マース』のあいだですから74、75年です。だとすると、61年生まれの私こそ、正真正銘の「ビートルズ世代」ということになります。
ということは、「ビートルズ世代」の洋楽マニアだった私が、同世代だが異次元にいた「ディスコ世代」の榎本先生と30数年後に高齢者介護というフィールドで出会い、ダンス・リハビリが実現したということなかもしれません。
3月にはローリング・ストーンズの東京ドーム公演へ行ってきます。
2013年9月7日(土)と8日(日)、栄・オアシス21において、あいちトリエンナーレ2013の関連イベント「フェスティバルFUKUSHIMA in AICHI!」がおこなわれました。 こ
のイベントは、東日本大震災と福島原発事故をきっかけに、福島ゆかりの音楽家や詩人たちが集まって起ち上げたNPO法人「プロジェクト FUKUSHIMA!」によるもの。人びとが集い、語らえる「お祭り」の場を設けて、いまの福島、未来の福島を世界に向けて発信しようというプロジェクトです。
この日は、代表の一人でNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』の音楽を担当している大友良英さん(写真ではギターを弾いています)率いるあまちゃんスペシャル・ビッグ・バンドの伴奏、共同代表の歌手、遠藤ミチロウさんらも参加して、「ええじゃないか音頭」「あまちゃん音頭」などをみんなで歌い踊りまくりました。
豊寿苑は、「フェスティバルFUKUSHIMA in AICHI!」に際して「プロジェクト FUKUSHIMA!」の取り組みに賛同し寄付させてもらいました。風呂敷をつなぎ合わせて作ったこののぼり旗はそのことの証しです。なお「老人保健施設豊寿苑」の文字は、大友良英さんの直筆です。
ちなみに、私、塚原立志は、『ミュージック・マガジン』2013年10月号のアルバム・ピックアップのコーナーで、『あまちゃん オリジナル・サウンドトラック 2』と『あまちゃん 歌のアルバム』を1ページで紹介しています。
2013.10.02 | 音楽とアート
前にも書いたように、私は現在、『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』という月刊の音楽雑誌でワールド・ミュージックの紹介記事を書かせてもらっている。
『ミュージック・マガジン』は、音楽評論家の故・中村とうよう氏が1969年に創刊したロックやブラック・ミュージックなどを扱う日本初の本格的な音楽批評誌。その歯に着せぬ論調には高校時代から一目置いていた。毎号欠かさず購読するようになったのはワールド・ミュージックを積極的に取り上げるようになった80年代終わりからである。『マガジン』とか『MM』と略称されることがある。
『レコード・コレクターズ』は『ミュージック・マガジン』の別冊として82年に創刊。『ミュージック・マガジン』が新作中心に対してこちらはリイシュー(再発)盤の紹介が中心である。特集はビートルズ関連が多い。こちらは『レココレ』または『RC』と呼ばれる。
『MM』と『RC』は、いまも賛否含め、ポピュラー音楽批評の指標になっている。そんな権威ある音楽誌にほぼレギュラーで文章を書かせてもらっているとは名誉な話で、学生時代の自分だったら尊敬してしまうだろう。もっとも洋楽ファンが皆無といっていい豊寿苑でこの話をしても無反応だが‥‥。
きっかけは私が2003年に個人的に起ち上げたワールド・ミュージック批評サイト “Quindembo” が編集者の目にとまったことだった。だからもう、縁ができて7、8年になるだろうか。
私が専門とする「ワールド・ミュージック」というジャンルは、いわゆる世界の民族音楽や民謡ではなくて、世界各地のポピュラー・ミュージックの総称である。 たとえば、中央アフリカのコンゴ民主共和国で50、60年代に完成されたルンバ・コンゴレーズ。これは植民地時代から独立期にかけて、レコードやラジオを通じて、ヨーロッパから入ってきたポップスやジャズ、なかでもキューバ音楽に、伝統音楽の要素がかけ合わされて生まれた都市音楽である。
このようにポピュラー音楽は、その国や地域の人びとの文化や好みに応じて変化する。裏を返せば、ポピュラー音楽を聴けば、その地域や人びとの文化やライフスタイルが見えてくるというわけである。
ここは音楽を専門的に論じる場所ではないのでこれ以上は踏み込まない。興味のある方は私のHP“Quindembo”、または『ミュージック・マガジン』と『レコード・コレクターズ』を覗いてみてください。
で、何が言いたかったというと、医療・介護業界で、小牧という人口15万人の地方都市で、私はいつも多くの人びとに囲まれながらも、いいようのない孤独感を味わっている。『MM』と『RC』への寄稿は、自分が外の世界とつながっていると実感できる安心材料であり、かけがえのない自己承認の場なのである。
2013.08.12 | 音楽とアート
洋画家・伴清一郎の代表作
豊寿苑の正面玄関から入ったロビーに大きな衝立(ついたて)があります。これは洋画家・伴清一郎さんの作品でタイトルは『月を盗る』といいます。平成7年(1995)の日本橋三越本店での個展で発表され、画壇の芥川賞といわれるその年の安井賞展に出品されたかれの代表作です。
作品は二枚一組で各180×75センチ。額縁を含めると全体で210×210センチに及びます。たぶん伴さんの作品の中では最大級ではないでしょうか。
琳派ですか、と聞かれたこともありましたが、テンペラ絵の具と油絵の具を併用したヨーロッパ古典技法で描かれています。これは板にテンペラで下地を描き、その上に極細の筆で油絵の具を薄く何層も何層も重ねて仕上げていくという緻密な技法です。ダ・ヴィンチの有名な『モナリザ』にもこの技法が使われています。
画面の左下には、「芥子坊主」という筆の穂先のような子どもの髪型をして、金剛力士像のような隆々たる筋骨の童子が立っています。かれは足首まで水に浸かり、あたりには蓮の葉と蒲の穂が生い茂っています。
金粉を散りばめた星々が輝く暗褐色の闇からは金箔を使った満月が周囲を幻想的に照らしています。童子が両手で抱える大きな深鉢は水で満たされ、水面には月影が映っています。おそらく沼沢に映る月をこの大きな鉢で掬いとったのでしょう。童子は盗った月をだれにも渡すまいとするかのように身構え、画面の先にきびしい視線を送り威嚇しています。
京都・泉涌寺に展示
伴清一郎さんは昭和25年(1950)滋賀県生まれ。〈童子〉のみを描く異色の画家です。現在は鎌倉在住ですが学生時代から長く京都に住んでいました。
京都は多くの神々や仏が坐す古都であると同時に、夜な夜な鬼や妖怪がたむろする魔の都でもありました。〈童子〉は、神や仏の眷属でありながら鬼や妖怪に近い存在であり、自然物や場所に宿る精霊です。人に危害を及ぼさないものの御利益を施すこともない、いたずら好きの下級の神=鬼ですが、伴さんはそんな〈童子〉の性格や容姿やふるまいの中に「日本のかたち」を発見したといいます。あるいは、伴さんの内なる日本が〈童子〉に結晶化されているというべきでしょうか。
平成7年の豊寿苑開設以来、施設のシンボルとしてずっと正面玄関に鎮座してきたこの大作が、平成23年10月15日(土)〜10月24日(月)、京都の二条城、泉涌寺、清水寺を展示会場とする美術展『観○光(かんひかり)』出品のため、一時京都へ里帰りしました。
展示場所は天皇家の菩提寺として「御寺(みてら)」の名で親しまれている泉涌寺(せんにゅうじ)。大門を入って長い下り参道の一番奥にあるのが本坊。その玄関正面の空間にこの作品が展示されていました。それは伝統的な和建築の空間にすっかり融け込んで、あたかも昔からそこにあったかのように映りました。16年間、毎日目にしてきたにもかかわらず、とても新鮮に感じ、(行儀が悪いのですが)床に這いつくばるようになってディテールをじっくりと鑑賞させてもらいました。
自然に還る
この作品、じつは伴さんが親しくしていた友人の死への鎮魂(レクイエム)でもあります。月と水は死と再生シンボルです。描かれている鳥、ひょうたん、ほおずき、香炉、気泡なども同様です。
日本人は古くからこの世とあの世が断絶しているのではなく、つながっていると考えていました。この世での死はあの世への誕生であり、あの世での死はこの世への生まれ変わりであるという円環状の死生観をもっていました。この作品はそうした死生観を表現しています。
それと同時に、友人の魂は鳥や魚や虫や草木や地水火風空に宿って生きつづけるだろうというアニミズム的な発想も入っているように感じます。個体としての人間の死は、肉体からの解放であり自然、こういってよければ宇宙(ブラフマン)=仏との融合なのだという思いがそこにあったのかもしれません。
豊寿苑では毎年何名かの方々が一生を終えられます。それは悲しい現実ですが、自我の苦しみから解き放たれて神仏のもとに旅立たれ自然に還られたのだと思えば、いくぶんかは救われる気持ちになれるかもしれません。この作品はそんなことを教えてくれると思います。
2011.10.25 | 音楽とアート