毒と薬

福祉は何でいいこと?

小牧市内にある福祉や介護関連の19施設が集まって「夏休み中高校生体験学習」という事業をおこなっています。当苑も開設以来、多くの学生たちを受け入れてきました。これをきっかけに福祉の道を選び、なかには当苑のスタッフになったひとたちもおります。

「中高生体験学習」を主催し窓口になっているのが、小牧市社会福祉協議会のボランティアセンターです。夏休み後、生徒たちの体験文集を刊行し、それぞれの施設も800字程度の文章を寄せることになっています。

施設のプロフィールとか、生徒への慰労の言葉とか、当たりさわりのない文章が並ぶなかで、わたしは文章をつうじて、子どもたち、というよりもその親や学校関係者の人たちにむけて、「福祉体験の意義とは何か」についてたえず問い続けてきたつもりです。

ところが、昨年、わたしが提出した「福祉は何でいいこと?」が社会福祉協議会から書き直しを依頼されました。なんでも、福祉の未来を信じている生徒たちの希望をうち砕く内容で教育上ふさわしくないのだそうです。

福祉なるものをア・プリオリ(無前提)に正しいと信じてその道に進んだ素直で心やさしい若者たちが、行政なり、われわれのような施設なりに都合よく利用されるだけ利用されて、使い捨てにされてきた現実を見てきただけに、福祉がよって立つ土台と役割を理解しようねと呼びかけただけの他愛もない内容です。

「日本には政府ありて国民なし」と舌鋒するどく説いた福沢諭吉ならば、この文章をきっと評価してくれただろうと思いますが、市から社会福祉協議会に出向してきた人物や、ボランティアセンターに天下りしてきた元校長?には、たんなるかく乱因子にしか映らないようでした。

それから「生徒たちには難解すぎる」ともいわれました。素直に「自分には難解すぎる」といってもらったほうがわかりやすくてよかったと思います。よく子どもや障害者などの社会的弱者をたてにして、自分の感情をいいたてる「オトナ」たちがいますが、これと似たようなものでしょうか。

会議に同席していた他の施設の所長から「人を選んで法は説け」というニュアンスのアドバイスをもらいました。

あれから1年がすぎました。 そこで、以下では、ボツになった原稿と、感想を求められ社協に送った意見書を掲載させていただきます。

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『福祉は何でいいこと?』

ぼくがきみたちと同じ中高校生だったころ、「福祉」なんて大っキライだった。自分でもわかってないクセして「福祉はいいこと」と決めつけ圧しつけてくるオトナたちの態度が気に入らなかったのだ。ためしに「何で福祉はいいことなのか」って聞いてみてごらん。「弱い人をいたわるのはいいことだからいいこと」ぐらいの答えにならない答えしか返ってこないから。

ぼくはこう考える。現代の社会は資本主義といって、科学や技術がたえず進歩し続けることを前提にしている。そのためには人と人(会社と会社)とを競争させなくてはならない。当然、勝った方は負けた方よりいい思いをする。資本主義はこれをやむをえないと考える。

では、負けた者や競争に参加できない弱者は無視されてもいいのか? 答えは三つの理由でノーだ。

一つは、負けた側の息の根を止めてしまっては競争がなくなってしまう。これは資本主義にとっては致命的なことだ。

第二に、今日は勝てても明日も勝てるなんて保証はどこにもない。年をとれば体力は衰えるし、ケガをして戦えなくなることだってある。つまり、だれだって弱者になりうるということだ。

第三に、健全な資本主義は民主主義を前提にしている。「すべての人が対等な価値と自由を有する」という民主主義の基本が守られないと、資本主義というゲームは始める前から有利と不利ができてしまってフェアじゃない。その意味で、ハンディキャップのある人に対して国が責任をもって援助するのは当然の義務なんだ。

ことわっておくけど、働けない人たちだって、生活用品を買ったり、公共サービスを利用したりすることによって資本主義に参加しているんだ。だって、使う人がいなければ作ったり売ったりする必要がなくなって経済が停滞しちゃう。だから、堂々と胸を張っていればいいのさ。

このように「福祉」は、社会的な弱者といわれる人たちにとって必要というだけではなく、国のかたちが成り立つためにも欠かせないものなんだ。自分たちに都合がいいものだから、「福祉はいいこと」だなんて言ってるわけ。ヒューマニズムというキャンディの包みにくるんで。

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この流動化社会にあって、「前例主義」「事なかれ主義」という、いかにも「お役所」的な思考停止型スタンスをとり続けるボランティアセンター、いな小牧市社会福祉協議会には大いなる絶望感を抱かざるをえません。

「自明性」の底が抜けて、判断停止ではなく一人一人が選択を求められる(すなわち「再帰的」な)社会だからこそ、未来のある子どもたちに対しては自己の存立基盤について考えるクセを付けさせる。そうしたディシプリンを脳みそが柔軟ないまのうちにしておかないと、根拠を問うことなく前例をトレースして体裁だけを整えるという腐った「お役人根性」が身に付いてしまいます。

大人が推奨する形式論理をなぞるだけの、地に足のついていない表層の「ヒューマニズムごっこ」はそろそろヤメにしませんか? 「現実」を直視させて、そこから「理想」を構築していく感性を養ってあげることこそ、私たちの使命なのではないでしょうか?

2010.09.30 | 介護社会論

拙論『「ヤンキー系」が介護を救う』が大学入試問題に!

昨年10月に朝日新聞全国版「わたしの視点」欄に掲載された『「ヤンキー系」が介護を救う』が、吉備国際大学2010年度前期入学試験の国語問題として採用されました。

「将来が見えないことへの不安を解消する方法」や「少子化対策にも貢献してくれるにちがいない」と筆者が考える理由を答える問題など、当の筆者にも答えられい難問です。また、文章はパソコンで書いているため、「アイサツ」とか「カンパ」とか、わたしも漢字で書けませんでした。

感心したのは、介護職のパブリック・イメージで筆者が指摘する3点のうち、「低賃金」「将来性なし」のほか、空欄になにが入るか答えなさいという設問です。答えは「重労働」で、問題自体はむずかしくないのですが、表面的な知識よりも現状認識の深さが試されるいい問題だと思いました。

吉備国際大学を、インターネットで調べてみると、岡山県にあって、社会学部、保健科学部、社会福祉学部、国際環境経営学部、心理学部、文化財部の6学部、学生数は約2500人とありました。

看護師、理学療法士、作業療法士、社会福祉士、臨床心理士などの養成にも力を入れているようで、将来の医療・福祉分野を支えていくであろう若者たちにむけて、わたしの歯に衣着せぬ現場の本音を投げかけられた問題作成者のかたの英断に敬意を表します。

入試問題は、かつてわたしも世話になった教学社の「傾向と対策」シリーズ、いわゆる「赤本」の2011年版『吉備国際大学』の「一般前期〈3教科型〉」で見ることができます。

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2010.09.21 | 介護社会論

介護士は心霊がお好き?(その3)

ベストセラー『下流社会』で知られる消費社会研究家でマーケティング・アナリストの三浦展(あつし)氏は、『現代若者論』(ちくま文庫)で、85〜92年生まれの、いわゆるZ世代の若者には、奇跡や死後の生まれ変わりを信じるなど、非合理主義的傾向が強いことを報告しています。
それは、戦後の経済成長をささえた近代合理主義的な価値観が揺らぎ「溶解」した時期にかれらが育ったことと関係があると氏は分析します。

わたしが注目したいのは、地元好きの者のほうが非合理的なものを信じる傾向にあるという指摘です。

その理由を氏は、地元好きは地域社会に古くから伝わる迷信や慣習などにより適応してきたせいではないか、といったんは考えます。しかし、地域社会の解体はいまや大都市部だけではなく全国的に進行し、地域の迷信や俗信は消えてなくなりつつあります。かれらはこの現実を目の当たりにしながら生まれ育ったからこそ、かえって新しい「魔術」を求めようとしているのかもしれないと考えを新たにしています。

この切り口は、氏がよさこいを踊る若者たちの日本回帰志向を、日本的な文化伝統にのっとったものではなく、「J」的としかいいようのない無国籍性と看破したことと通じるものがあります。

それはパワースポット・ブームにもいえること。その場所が、たとえ由緒ある古刹や景勝地であったとしても、「伝統」や「歴史」の重みがまったく感じられないのは、とらえる側の視点があくまでも「J」的だからなのではないでしょうか?

ただ、地元志向の若者たちがより心霊的なものを好む理由をこのことだけで説明するのは無理があるように感じます。

わたしはこう考えます。 近ごろ、生まれも育ちも地元という「ディープ・コマキ」の若手介護スタッフが多くなっています。かれらに聞くと、オフはいまだに中学時代の同級生たちとよくつるんでいるとのこと。
これはつまり、伝統的な地域共同体は壊れてしまっても、友だち同士のムラ社会的な人間関係はずっと保たれているということです。外部に対して閉鎖的な共同性が保たれているところには、暴走族の改造車が象徴するように、合理的価値基準や一般社会の価値基準とはちがう極端なものが生まれ温存される傾向にあります。新しい「魔術」はそんなところから生まれるのではないでしょうか?

2010.09.16 | 介護社会論

介護士は心霊がお好き?(その2)

看護師や介護士たちには、心霊の存在を信じているひとたちが非常に多いような気がします。
おもな理由として次の3つがあげられるでしょう。
(1)死が身近にある職業であること。
(2)女性中心の職場でがあること。
(3)病棟(療養棟)が閉鎖的なムラ型社会であること。

あるかたから豊寿苑に高さ100センチぐらいの観音様の木彫りのレリーフを寄贈いただきました。さっそく療養室のあるフロアに安置したところ、毎日、お年寄りたちが熱心にお参りしておりました。
ところが、あるスタッフが、夜勤のとき、レリーフからすすり泣きが聞こえてきたといい出したのです。うわさはまたたく間に広まって、ついに「この像があるなら夜勤はしたくない」というスタッフまで出てきました。かわいそうに観音様は撤去されるはめになりました。

心霊体験は、夜の暗く静かな療養棟にひとりきりでいるときの不安な心理のあらわれです。こうした不安感をみなおなじように抱えているので、うわさに尾ひれがついてより現実味を帯び、追体験するスタッフまで出てくるということなのでしょう。

お年寄りたちにはご迷惑をおかけしましたが、人についてのうわさ話にくらべたら、霊についてのうわさなどよっぽど人畜無害で牧歌的だと思います、女性中心の職場では。

夜間すすり泣きが聞こえたという問題の観音像。現在は1階のエレベーターのわきに安置されています。

夜間すすり泣きが聞こえたという問題の観音像。現在は1階のエレベーターのわきに安置されています。

2010.09.15 | 介護社会論

介護士は心霊がお好き?(その1)

毎朝礼時、出勤スタッフの一人が、みんなの前で簡単なスピーチをする「今日のひとこと」というのをやっています。

コミュニケーション力を身に付けさせようと、始めてかれこれ7、8年。ところが、実態は「体調管理に気をつけましょう」という程度の、差し障りのないプレーンな話題ばかり。そのあまりの無気力ぶりに朝から目一杯ヤル気をそがれてしまうこともしばしば。それでも、ときには、こんな興味深いエピソードに出会えます。

その日、スピーチしたのは、20代の男性介護スタッフ。休日に岐阜県の下呂温泉にある滝を見に行ってきたそうです。そこはパワースポットと呼ばれる場所で、かれは滝の強力なマイナスイオンのエネルギーを大量に体内に取り込むことができたと自慢していました。

「それって、たんに滝の細かい水の粒子が肌に当たってヒンヤリ気持ちよかっただけのことだろ?」
と、ツッコミたいのを黙っていると、若い女性スタッフがすかさず、明治神宮にも有名な場所があって、あるお笑い芸人はそのパワーのおかげで仕事がたくさん舞い込んできたと大まじめに話しはじめました。

朝の話題に対してほかのスタッフからリアクションがあるというのはきわめて異例のこと。若いひとたちのあいだでパワースポットはそんなにブームなのかとちょっと驚きました。

木・岩・滝といった物や場所、あるいは人にある種の力が宿っているという考え方は、日本古来のカミ観念でめずらしいことではありません。
おもしろいと思うのは、これらが、マスメディアやケータイの情報ネットワークのなかから、パワースポットとして突如として浮かび上がり、爆発的に普及したかと思うと、あっという間に消え去ってしまうという点です。パワースポットは、まさしく現代の霊場、心霊スポットのホワイト・マジック・ヴァージョンなのですね。

2010.09.15 | 介護社会論

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